結城浩
2002年12月15日
クリスチャンになりたてのころ、 私は「どうして神さまをほめたたえるのだろう」と思っていた。
なぜそう思ったかというと、 もし神さまをほめることが必要だとするなら、神さまは単なる見栄っ張り。 人々の賞賛がなければやっていけない生意気で傲慢な存在ではないか、と思ったからだ。 今にして思えば、私自身が見栄っ張りで生意気で傲慢な存在だから、そういうポイントが気になったのだろうなとわかるが、 それはまた別の話。
で、今日、教会で礼拝をしていて、ふとたとえ話を思いついた。
ある晩、素晴らしいコンサートがあったとしよう。 オーケストラが難曲を奇跡的な演奏でこなした。 聴衆はその演奏に深く感動する。 いままで何度も何度もその曲を聴いていたはずなのに、 今晩の演奏を聴いて「ああ、この曲はこういう曲だったのか」と驚きつつ喜ぶ。 言葉で言い表せないほどの喜びがあり、 日々の疲れが吹き飛び、これからの自分の人生がすべて意味を変えるようなそんな素晴らしい演奏だ。 聴衆一人一人の感動の深さや質は違うけれど、 会場に集まったみんなが、その演奏を中心として、1つの何かをシェアしているという感覚を得る。
演奏が終わり、聴衆はみな痛くなるほど手を叩き、ブラボーと叫ぶ。 足を踏み鳴らし、喜びの声を上げる。 演奏者もまた偉大な演奏をなしとげた喜びにあふれ、指揮者を見上げる。 指揮者は聴衆の歓喜の声に応える。
…そんな情景が目に浮かんだ。
もしも、聴衆の一人が拍手をしなかったら、演奏の素晴らしさは損なわれるだろうか。 そんなことはない。聴衆の拍手は聴衆の応答なのであって、 拍手の有無が演奏の素晴らしさを左右するわけではない。 演奏は成し遂げられたものだ。 拍手をすることで、聴衆はその演奏に参与し、花を添える。 その場にいることを喜び、すばらしい感動をシェアしたことを表現する。 そしてさらなる喜びを得る。 拍手をしないことで、演奏の素晴らしさを損なうことはできない。 それは単に自分が聞く耳を持っていなかったか、共鳴する何かが欠けていただけの話だ。
神さまを賛美する、というのは、 この奇跡的な演奏に拍手を送り、ブラボーと叫んでいるのに似ている。
天地を作り、大宇宙を支配しておられる偉大な神さまが、 小さなゴミのような人間——私たち——を愛してくださり、 わざわざ、大切なひとり子をこの地上に使わされた。 汚い飼い葉おけの中の小さな赤ちゃんとして。ベイビー・イエスだ。 そして、人間として成長した後、人類が例外なく持っている「自己中心」という罪の身代わりとなって、 十字架にかかり、死んでくださった。 しかし死んで終わるのではなく、三日の後によみがえって天にのぼられた。 イエスさまを信じる私たちの住まいを天国に整えてくださるために。
そして、イエスさまを信じるとき、 いままで毎日見ていたはずの「生活」の意味が変わる。 私たちが住んでいる世界は、悲惨に満ちている。 しかし、これがすべてなのではない。 私たちはこの世界を歩く旅人であり、 いつか天国に帰るまでのわずかの間、この世に居留している民なのだ。 神を信じ、人を赦すことを学ぶ。神を愛し、人を愛することを学ぶ民なのだ。 聖書を通して、私たちはそのような事実を学ぶ。
孤独だと思っていた人生が、実は孤独ではなく、 イエスさまがいつもそばにおられることを知る。
さびしい人生だと思っていたのに、 神さまからの無条件の愛があふれんばかりに備えられていることに気がつく。
自分はもうだめだと思っていたのに、 神さまはイエスさまの十字架のゆえにゆるしてくださることを悟る。
私たちは、神さまのそのようなすばらしい奇跡の御わざのゆえに——これが奇跡でなくて何が奇跡だろう—— 神さまへの応答として拍手し、賛美する。神さまをほめたたえる。 神さま、ありがとうと叫ぶ。歌い、喜び、踊りだす。
今日、礼拝メッセージを聞きながら、 私は心に浮かんだこんなたとえ話を楽しんでいたのです。
もうすぐクリスマスですね。 みなさまの上に、神さまの愛が豊かに降り注ぎますように。 みんなで神さまをほめたたえ、賛美しましょうねえ。
本当の神さまを信じる最初の一歩は、とても個人的で小さな一歩です。
しかし、その一歩には、はかり知れないほど大きな意味があります。 なぜなら、その一歩には「あなたの命」がかかっているからです。 私には——いま半分泣きながら日記を書いている結城には——あなたの命を救う力はありません。 けれど、神さまにはあります。 私ができることは、あなたがほんとうの救いに至り、命を得るための道を指し示すことだけです。 そこから先は、あなたが自分の意志で選ばなければなりません。
誰もあなたに信仰を強制することはできません。 あなたがイエスさまを信じることを強制することは誰にもできません。 もちろん、あなたには自由があります。 イエスさまを信じるかどうかの選択を「後回しにする」という自由もあります。
しかし、——主にあって愛する兄弟姉妹よ—— どうか、いまイエスさまを信じてほしい。 私は心からそう願います。 自分の罪(自己中心)を悔い改めて、 イエスさまに心を開き、イエスさまの救いを受け取ってください。 お願いします。 世界中の富を得たとしても、自分の命を失っては何の得があるでしょうか。
あなたには一生のうちに何回かイエスさまを信じるチャンスがあるはずです。 「自分はこのままじゃ何かマズい、マズいぞ。悔い改めるのはいましかないんじゃないか」 と思う瞬間が何回か訪れます。 そのとき同時に「いや、まあ、いつか落ち着いてから考えることにしよう」とか 「何とか自分の力でやっていけるさ」とか「こういうのには関わらんほうがよさそうだ」とかいう声も 心をかすめるかもしれない。
その瞬間、あなたは何を選ぶか。
一生のうちに、イエスさまを信じるチャンスがあなたに何回来るのか、私は知りません。 何千回も来るのかもしれない。もしかしたら、今日が最後のチャンスかもしれない。 私にはわかりません。それは神さまからのプロポーズに気づく瞬間です。 神さまはいつもプロポーズをしているのですが、 それに気がつくのが一生に何回あるか、という問題です。
選択は重要です。神さまからのプロポーズに「はい」と答えれば、 それだけであなたはイエスさまの花嫁です。 あなたの一瞬の選択があなたの一生を決めるのです。 しかし、プロポーズには「いいえ」と答える選択の自由もあります。 その選択には、あなた自身の命がかかっています。
具体的にはどうすれば「はい」と答えることになるのか。 それは以下のページに書かれています。 順番に読んでいくと、お祈りが書いてあります。 もしも、その祈りに対して、あなたが心から「その通りだ」と思えるなら、 そのお祈りをあなたが自分の口で言い表してください。 あなたがイエスさまの救いにあずかることを祈っています。