かなう祈り、かなわない祈り

結城浩

2000年1月16日

私はある方から、 「そんなつまらないことを祈って、クリスチャンはどうかしてるんじゃないの」 と言われたことがある。

よく記憶はしていないが、 コンピュータが不調のときに、 何とか直るようにと祈ったりしたことに対してだったように思う。 そのときは何と答えたかよく覚えていない。 たぶん、どんなつまらないことでも、神様を信頼して祈るのはよいことだ、 とかそんな風に答えたか思ったかしたのだろう。

今日、ふと手に取ったルイスの「神と人間との対話」(新教出版社 ISBN4-400-52057-9)の中に、 そこに触れる記述(p.89)があった。以下はそれに触発されて書いた文。

祈りとその結果はおうおうにして「因果関係」としてとらえられる。 祈ったからコンピュータの調子がよくなった。 祈ったから仕事がうまくいった。 祈ったからよい結婚ができた。 というように。 これはこれで結構なことだが、 祈りが「かなえられる」こと以上に、神様によって祈りを「聞いていただける」ことの方が重要なのかもしれない。 神様が祈りを聞いてくださる。 神様が私の人生に関与してくださる。 個々の祈りが「かなう」ことよりも、 個々の祈りによって、 いつも自分が神様との関係の中に生きることの方が大事なのではないか。

とここまで考えると、 最初に書いた「そんなつまらないことを祈って…」と言った人の気持ちが少しわかるように思った。 この人は祈りを、 神様との交わりの場としてではなく、 自分の願いをかなえる「因果関係」としてとらえているのではないか (信仰をもっていないかたなので、それを責めるつもりはないですが)。 日が沈むと暗くなる。 スイッチを入れると電気がつく。 それと同じような因果関係として「お祈りすると願いがかなう」と考えているのではないか。 だとするととても納得が行く。 成就するようにと願い事をするならば、 そんなちっぽけなことではなく、もっと世界のためになる、 他の人のためになることを願えばいいではないか、 なぜ自分の機械のことや目先のことだけを願うのだ、 というわけである。ごもっとも。

だが、 祈りは神様との霊的な交わりの場なのだ(花嫁が花婿とむつまじく過ごすのと似ている)。 神様が私に人生のすべての場において関わり、 関与してくださることをわたしは願う(願いたい)。 人生のどんなささいなことであっても、 それが自分の願いどおりになるかならないかは二の次にしても、 それを神様の前にもっていく。 それが祈りなのだ。 その祈りや願いはかなうかもしれないし、かなわないかもしれない (それは、父が愛する子を養育するときと似ている。本当に子を愛する父は子が望むものをすぐに買い与えたりはしない)。 しかし、神様を信頼してそれを神様の前に持っていったのだから、 かなっても、かなわなくても、それは神様が最善としてくださったのだと信じよう。

コンピュータのメモリのことでも、 掃除のことでも、頭痛のことでも、結婚のことでも、仕事のことでも、 環境問題でも、世界平和のことでも、 問題の大小に関わらず、それを神様の前に持ち出そう。 とくにそれが自分の心にかかっているならば。 他の人が何と言おうと、いまの自分の心にかかることをあらいざらい、神様の前に広げよう。 神様に「聞いて」いただこう。

そして、いつも、神様に感謝し、イエスさまに栄光をお返ししよう。