プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩

結城浩

1999年7月8日

書店にはたくさんのプログラミングの入門書が売っている。
私もプログラミングの入門書を書いている。

でも、入門書を買っただけでプログラミングが身につくわけではない。
入門書をただ読むだけでもだめだ。
自分の頭で考え、自分でプログラムを読み、
自分でプログラムを書いてみないことには、
プログラミングは身につかない。

聖書も同じだ。
いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。
教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。
けれどもそれだけではだめだ。
自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、
自分自身の生活の中に適用していかなくては、
聖書は身につかない。
自分で適用しようとしてみなければ、
聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。

自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。
自分の心の奥深いところ、
誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは
その人本人にしかできない。

プログラミングの入門書は、プログラミングの面白さや難しさを解説することはできる。
ソフトのインストール方法を教え、ツールの使い方を教え、
プログラムを書く直前まで、読者を連れて行くことはできる。
でも、その後、実際にプログラムを書くという行為は、
読者が自分でやらなくては全く意味がない。
他の人が代わりにやってあげるわけにはいかないのだ。
自分でプログラムを書くというもっとも重要なところは、
読者にゆだねられているのだ。

信仰もまったくこれと同じだと思う。
どんな信仰書も、どんな牧師も、友人も、
もっとも重要な部分をあなたの代わりにやってあげることはできない。
自分の心の扉を、聖書に対して、神に対して、イエスさまに対して開く。
その最後の部分はあなたにゆだねられているのだ。
いや、最後ではない。
自分の心の扉を自分で開くことが、
実は生きた信仰の最初の一歩なのである。

 神さま。私は自己中心に生きています。ごめんなさい。
 あなたの愛が必要です。助けてください。
 私の心を今あなたに向けて開きます。
 イエスさま、どうぞ私の心に来てください。
 祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、
 自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。
 神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。
 イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。
 あなたの救いを信じます。罪深い私を救ってください。

そのような信仰告白を自分の口で行なう機会は、
ひとりひとりにフェアに与えられている。
身分の違いも、能力の違いも、国籍の違いも、
これまでにやってきた善行悪行の違いもなく、
ひとりひとりに公平に与えられている。

昨日はすでに過ぎ、明日はまだ来ない。
もしかしたら、この世での自分の明日は来ないかもしれない。
自分の口で祈れる時は「今」しかないのだ。