結城浩
2000年11月14日
『Perl言語プログラミングレッスン』入門編の初校読みが続く。 一回目の読みは7章までいった。読みあわせまで4回は読みたいのだが。 昨晩は長男に初校読みを少し手伝わせてみた。といっても索引の項目のマーカーつけという機械的作業。 私が「この『$&』にマーカーつけて」というと、長男は神妙な顔つきで力いっぱいマーカーをつける。 すごく時間がかかるが、長男はなぜか楽しそうである。父親がやっている仕事を手伝うというのは 楽しいことなのかもしれない。 私が朱を入れるのも、長男は興味深げに見ている。 私も少し解説をしてやる。
結城「こっちに書いてある'toe'と、こっちに書いてある'toe'はどこが違うかわかる? 同じ単語なんだけれど、文字の形—フォント—が違うでしょう? こっちはクーリエ、こっちはローマン。クーリエの方は文字の線の幅がおんなじだけれど、 ローマンの方は太いところと細いところがある」
長男「(じっと文字をみて)そうだね」
結城「ほら、これは間違いやすいところだよ。このカッコ ( ) をよく見てごらん。 カッコの上の方は細いでしょう。だからこれはローマンのカッコなんだ。 でもここはプログラムの説明だからクーリエのカッコにしてもらわなくちゃ困る。 だからとーたんは赤いペンでここに『クーリエ』と書いておく。 そうすると、編集の人がちゃんと直してくれるんだよ」
長男「(じっと文字をみて)あ、ほんとだ。上の方がしゅううっと細くて、途中は太くなっているね」
思い返すと、私も小さい頃、父親の仕事を少し手伝ったことがある。 父親はアマチュア無線(DX)をしていたから、QSLカードをたくさん持っていた。 小学生の私はそのカードの一覧をタイプするという仕事をいいつかった。 父親が並べていくカードを順番にタイプしていくのだ。 確かに(今でも覚えているくらい)楽しい作業だった。
話は変わるけれど(いや、変わらないんだけれど)、 神さまを信じる人は神さまの子どもと見なされる。 神さまの御心にかなう行うをする(つまりは愛を行う)というのは、 ほんとうにささやかながら神さまの仕事のお手伝いをしていることになるのだろうか。 長男がマーカーをつけてもつけなくても、私は仕事をやりとげるだろう。 長男がつけたマーカーそのものにそれほど大きな意味はないかもしれない。 しかし、そこにはいっしょに仕事をするという喜びがある。 長男にとっても、父親である私にとっても。 QSLカードをタイプすることも、当時の父親にとって必須の仕事ではなかったように思う。 ただ、私がタイプできるのでさせてみた、というくらいのことだろう。 しかし、子どもの私はとても楽しかった。 神さまも、私たちがささやかな愛の行いをすることを喜んでくださるだろう。 私たちが何をなそうとも(何をなさなくても)、神さまの大きなご計画がゆるぐことはないだろう。 しかし、きっと父なる神さまは私たちの愛の行いををお喜びになるに違いない。
それが、人間の目にはどれほど小さいものに見えたとしても。