結城浩
2004年9月28日
はちこさんのところの日記(2004年9月4日)で「進化論」の話題が出ていて、興味深く読みました。
いま時間がなくて詳しく書きませんけれど、 私自身は、たとえ科学が進化論を主張しても、あるいは否定しても、私の信仰にはまったく影響がないと思っています。 私は「科学的な学説としての進化論」はキリスト教に相反するものだとはまったく思っていません。 でも「進化論的世界観」はキリスト教と相反する(敵対するといってもよい)ものだと思っています。
ここで私がいう「進化論的世界観」とは何かというと(って書き始めると長くなるんですよね)、 この世は「偶然」にできたものであって、まったく存在には意味も意図もないのだ、背後には創造者などはいないのだ、という世界観のこと。 こういう世界観を主張する人はいるだろうか。よくわからない。 でも、もしそういう世界観を主張する人がいるとしたら、 その人に私が尋ねたいのは、 「もしそうなら、あなたの脳も偶然にできたものであって、何の意味もない。 とするとあなたの主張にはどれだけの信頼がおけるのだろう?」 という質問である。
進化論的世界観は非常によくない。害毒を流す考え方だと思っている。 なぜなら、それは虚無への道だからだ。それは人の心を深くまで蝕む。 いや、人の心を蝕むとかいうやわらかい表現じゃだめだな。 進化論的世界観は、あなたやわたしを殺してしまう考え方だと思っている。 ダッシュで逃げろ、という感じですね。 って、説明になっていないか。ごめんなさい。仕事の途中なのでした。
ちょっと話はそれるけれど、以下のインタビューの終わり(世界をリバースエンジニアリング)も参照のこと。
仕事に戻りますっ!
今日の昼に書いた日記(進化論的世界観)に対して、 予想以上にたくさんのフィードバックが来て驚いています。
みなさん、ていねいな文章を送ってくださったのですが、 時間的な都合で、ほとんどお返事はできません。 何通かはお返事を書いたのですが…ごめんなさい。
その代わりといってはなんですが、 ある方に書いた結城のお返事を、少し手直しして以下に置いておきます。 「わたしはまさに結城さんのおっしゃる進化論的世界観をいだいています」 という文章を複数の方からいただきましたが、 そのうちのお一人にあてて書いた結城の手紙です。
結城は「害毒を流す考え方」などと表現してしまいましたが、 実際のところ、進化論的世界観をいだいているからといって、 すぐに何が起こるというものではないと思います。
結城は、「進化論的世界観」というものは、 自分が落ち込んだときや体調がよくないときに、 急激に危険なものとなると思っています。
普段から「進化論的世界観」を自分の心の基調としているとします。 すると、体調がよくないとき、仕事で大失敗したとき、 急に「ああっ、自分の存在にはまったく意味はないのだ。 自分なんかいてもいなくてもまったく違いはないのだ」という意識に とらわれてしまう危険があるのです。
これが「虚無への道」です。
わたしが20代で、まだクリスチャンでなかったころ、 そういう思いにほんとうにほんとうに苦しめられたものでした。 苦しかった。自分に価値がない。自分は偶然の存在に過ぎない。 自分は誰の役にも立たない。いや役に立つ・役に立たないということすら無意味だ…
現在私は40代。 イエス・キリストを信じている現在の私にも、そのような思いがやってくることがあります。 でも、いまの私は「いや、そんな思いはにせものだ!」と蹴とばすことができます。 聖書に書いてあるように、 私は神さまによって目的を持って作られた存在であり、 私は神さまから愛されている存在なのだ! と宣言することができるのです。
私たちは、ほんとうに弱い存在です。 よい調子のときもあれば、わるい調子のときもあります。 わるい調子のときに、ふと足元をすくわれてがくっとこないように、虚無の道——坂道を転がり落ちないように、 ふだんから自分の心の周りを整えておくことが大事だと思っています。
あなたの毎日の生活が、神さまに祝福されたものとなりますように、 イエス・キリストのお名前で祈ります。
アーメン!