結城浩
2002年2月16日
(08:46) きょうはゆっくり過ごします。ときどき見にくるよろし。
(09:23) 古いメールを整理。 といっても年代別にフォルダ移動しただけ。
(10:01) 若い人というのは、いろんな人からあれこれ言われる。 でも年齢が上がってくると、あまりあれこれ言われなくなる。 本当に「言われる必要がない」ならば、問題ないけれど、 そういう可能性は少ない。
まわりの人が「あの人はこういうところに問題があるけれど、 年長者だからあまりとやかく言わないでおこう」と考え始めるのではないか。 もしかしたらまわりの人は「このあいだ一言『ご忠告』申し上げたら、えらくご立腹になった。 よかれと思って言ったのだが。まあいいや、もう『ご忠告』なんぞしないでおこう」 と思っているのかもしれない。 世の中の「先生」や「上司」にはそういう扱いを受ける人が多いであろう。
しかし、フィードバックを受けない当人はどうなるか。当然どこかに暴走していくことになる。 考えてみよう。運転手からフィードバックを受けない自動車のことを。 最初に位置をきっちりあわせていれば、ハンドルをまったく動かさなくてもまっすぐ進んでいく? そんなことはない。運転手が絶えず細かい調整をすることによって自動車はまっすぐ進めるのだ。
さて。
ここで話を「世の中にいるセンセイの批判」に向けるのはたやすい。 「あのセンセイは人の忠告を聞かない」というように。 でも「人差し指で他人を指差して批判するときには、 中指・薬指・小指が誰を指しているかを見よ」とワインバーグは言う。 そこで、私は自分の話をすることにしよう。
私は他の人からのフィードバックを絶やさないようにしたい。 暴走したくないからだ。 もちろん自分で聖書を読み、 自分でまちがった方向に進んでいないか(いろんな意味で)を考えなければならない。 家内や子供という家族からの意見も大事にしたい。 しかし他人の目というのもかけがえがない。
ときどき、 「ロバ耳」やメール経由で私もいろんな アドバイス、意見、批判、忠告を受けることがある。 もちろん、その中には正しいものも間違っているものもある。 もともと私がわかってやっているものもある。 しかし、他の人からのフィードバックが (特に私の方法に「ノー」といってくれるフィードバックが) 存在するというのは、 非常にありがたいことである。 こういうことを言ってくれる人を、 私は大事にしなければならない、と思う。
(11:00) 天気がよいので、次男を連れて近所をぐるっと回る。 私が一歩あるくとき、次男は三歩あるく。 まるで三連符のように。
(12:28) お昼はスパゲティ。
(15:44) あちこちのページの最上部に階層型のナビゲーションバーをつけてみた。
(17:28) ソファで横になり、 ラッコが石を抱くように次男を乗せて(次男は眠っている)ユーザビリティの本を読む。 面白いなあ。 またいろいろサイトをいじってみることにしよう。 晩御飯は ドミノピザの予定。
(19:50) 長男はピアノの練習中。次男は英語のビデオを見ながら寝転がってもにょもにょ暴れている。 私はサイトの中に階層型のナビゲーションバーをせっせと入れている。
(20:07) そうか、階層がはっきりわかると、 検索エンジンでサイトの深いページに突然やってきた読者が迷わないんだね。
(00:24) おやすみなさい。