結城浩
2004年10月5日
ふと思い出したので書いておく。 小説になった「聖書」というのがある。 ウォルター・ワンゲリンという方が書いた本だ。 何年か前、ワンゲリンさんの講演を聴いたことがある。 「物語」というものについての講演だった。 聖書を小説(物語)として表現することの意味についてワンゲリンさんが語っていた。 知識として聖書を読むのではなく、自分の体験として聖書の世界に入り込むことが大切、とワンゲリンさんは言っていた。
知識として聖書に書かれていることを理解・記憶するのではない。 聖書の記事を読み、その世界に入り、そこに起きている出来事を感じる。 登場する人たちとやりとりをする。憤りを感じたり、悲しんだり、喜んだりする。 時には武器をとって戦い、時には歓喜の歌声を上げる。
Web日記を書くという行為は、自分の生活を「物語」化することといえるだろうか、どうだろう。
毎日生活している。平凡な時間の中に、いろんな人とのやりとりがあり、喜びや悲しみがある。 その一部を切り出して、自分なりの文章で表現する。 それを他の人が読み、一部を共有し、体験する。
人のWeb日記を読むのは(知識を得る場合もあるけれど)、 多くは、知識が目的ではなく、何かを共に体験するためではないか。 場所は離れており、年齢も違うけれど、同時代に生きている人間として、 Web日記というささやかな文章を通じて、共通の時間を生き、共通の何かを体験するためではないか。
そんなことを考えた。