結城浩
2002年2月1日
こんばんは。結城です。 今日は、読み返さず編集せず、手の向くまま気の向くまま お手紙を書いてみようと思います。乱文ご容赦。 最近、何となく心にひっかかることがあるような気分がします。 足先が地面にひっかかってうまく歩けないような、そんな感じがします。 自分の中では、その原因が分かっているような分かっていないような。 「義務」とか「べき」について考える。 「○○すべき」事柄ばっかりがまわりに集まっていると疲れる。 自分の活動がすべて「必須」「義務」になってしまったら悲しい。 なぜだろう。きっと「遊び」がなくなるからだな。 「遊び」「自由度」「自分が工夫する余地」 うん、そうそう。「自分が工夫する余地」って大事だ。 言われたことを言われた通りするのはつまらないし、 何だか自分が無意味な存在であるかのような気持ちになる。 もちろん、仕事をやっていると「義務」「べき」ばっかりだ。 それに加えて「納期」だの「〆切」だのが加わって、やれやれ。 でも、そんなときこそ。 頭のスイッチをカチリと切り換えよう。 困り果てている自分を笑い飛ばし「自分なりの工夫」を見つけ出そう。 やっつけなくちゃいけない仕事があるなら、 自分をうまく「だまそう」。自分をおいしいもので釣って、 楽しみつつやっつけよう。 仕事の内容がつまらないなら、やり方を工夫しよう。 自分がいままで試さなかったやり方でやってみよう。 スイッチを、カチリと切り替える。 頭のスイッチだけではなく、心のスイッチも切り換えよう。 困り果てているとき、疲れ果てているときは、 自分のことしか見えていない。 目先のことしか見えていない。 心のスイッチを切り換えて、深呼吸をしよう。 「カチリ」 天にましますわれらの父に思いを向ける。 わたしを、あなたを、無条件に愛してくださる「いと高き方」に心を向ける。 わたしは、愛されている。 わたしは、愛されている。 無条件に、まるごと、そっくりそのまま、わたしは愛されている。 神さまがわたしをお創りになったからだ。 神さまの「わたしはあなたを愛している」というメッセージを、 もう一度きちんと思い出す。 胸に右手をそっとあてて、 「神さまはわたしをまるごと愛している」とささやく。 「神さま、ごめんなさい」「イエスさま、ありがとう」と祈る。 そうすると、たくさんのことを思い出す。 イエスさまが、いつも共にいてくださるということ。 わたしは、ここにいていいのだということ。 放蕩息子が帰ってきたとき、父の方から走ってきて抱きしめてくれたということ。 死にかけた泥棒ですら、死の直前の悔い改めで救われたということ。 神さまに愛されるのは、潔癖に生きたことを誇る人間ではなく、 「つみびとのわたしをあわれんでください」と訴えた人間だということ。 神さまはわたしの弱いところにこそ働いてくださるということ。 イエスさまは、つみびとのためにこそ来られたのだということ。 そして、自分の傲慢さにも気がつく。 自分の力だけで何かができると思う傲慢さ。 自分が自分の将来をすべて決められると思う傲慢さ。 自分の将来はこうなる、と自分で思い込む傲慢さ。 自分の能力を過信したり、卑下したりする傲慢さ。 ぜんぶ、ぜーんぶ、自分しか見ていないから傲慢なのだ! 神さま。神さま。 わたしはつみびとです。 つみびとのわたしを、あわれんでください。 イエスさまの十字架のゆえに、わたしをおゆるしください。 イエスさまのお名前によって、祈ります。 アーメン! あなたの救いは完全ですから、感謝します!