言い当ててみろ。今たたいたのはだれか。

結城浩

2001年9月10日

さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。 そして目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか。」と聞いたりした。 (ルカ22:63,64)

イエスに目隠しをして「当ててみろ」と言った人はどういう気持ちだったのだろう。 何がしたかったのだろう。 イエスが神の子ならば、こういうこともできるだろう、と思って試したのか。まあそういうところもあるだろう。 どうせできないだろう、偽者め、という気持ちなのか。それもあるかも。 でも単に「試した」だけではない。わざわざ無抵抗な相手をむちでたたいたのはなぜか。 単に普段のストレスの腹いせかもしれない。それは多分にあるだろう。 たたいてたたいていじめても、誰からも文句の言われない相手が自分の前にいる。 そのとき、その相手をからかい、むちでたたく監視人。

もしかしたら、 本当にその能力があるのなら、これほどまでに痛めつけたならば、 その能力をあらわにするだろう、という気持ちもあったかもしれない。 つまり、このときイエスにあたえられた苦痛や辱めは、 「たたいている本人にとって」苦しいと想像される行いであったのだ。 これほど痛めつけられたなら(私だったら)いやだ、と感じるような痛めつけ。 こんな責めを受けたら(自分だったら)耐えられんな、というような責め。 それがイエスに対して与えられた。 いわば、責める行為の中に、責める側の弱み・悩みが表現されている。 これは「人の喜ぶことを人になせ」の裏返しだ。 「自分が苦しむだろうことを人になしている」からだ。 しかし、イエスは口答えもせず、天から天使の軍勢を送ってもらうこともなく、耐えておられた。

あなたは、いま、人を責めていますか。 人を恨んでいますか。 人につらい思いを与えていますか。 そのような行為にあなたを走らせている原因・理由を、 神さまはご存知です。 あなた自身が感じている痛み、苦しみ、弱みに悩み、 それを神さまはご存知です。 どうかそのことを、神さまの前に持ち出してください。 あなたが怒るのは正当な理由があるのかもしれない。 あなたの痛みは本当に大きいのかもしれない。 しかし、それを、あえて神さまの前に捧げましょう。 感情的な怒り、瞬間的な怒りはしかたがない部分もある。 けれど、それを持続しつづけ、自分からそれをかきたてる行いは正しいでしょうか。 どうか、あなたの痛み、苦しみ、弱みに悩みを主にあけわたし、 主からの癒しとなぐさめを受けてくださいますように。 神さまが悲しまれる行いによって、自分自身にかえって災いを招くことがないように。

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 (イザヤ書 53:5より)

聖書を読むときに、単なる記事、単なる物語として読むのではなく、 そこに登場する人間は「自分の姿をあらわしているのではないか」という視点で読むと、 驚きと発見と学びのチャンスが訪れる。 心を開いて神様からの御言葉——聖書の言葉——を受け入れると、 聖霊様が解き明かしを与えてくださり、霊の目が開かれる。

聖書を読む態度…。 自分で、へりくだって「主よ、お語りください。 しもべは聞いております」というサムエル少年のような態度が大事だ。 聖書に書かれていること、聖書を通して神様が語っていることは、 ほかの誰でもない、現在の自分に対して語られているのだ、ということを理解する。 そうすると、聖書を通して私たちに与えられている救いの約束、いやしの約束が、 現在の自分のものとして受け取ることができる。

聖書の御言葉を軽んじることは、自分から聖書の約束を軽んじていることにほかならない。 聖書の御言葉を軽んじることは、長い長い時を経て、あなたの手元にやっと届けられた、 せっかくの宝物を自分からドブに捨てていることに等しい。

今日も、私たちに聖書が与えられていることを感謝しましょう!