結城浩
1997年10月3日
主を恐れることは知識の初めである。 愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
(箴言1:7)
箴言(しんげん)を読むと、ちょっとほっとする。 厳しくあられる方がいらっしゃることを確認して。
「主を恐れることは知識の初めである」
確かに私は知識を求めている。 毎日の仕事に必要な知識、生活の知識、そして楽しみのための知識。 しかし、その初めにあるのが「主を恐れること」だと聖書は主張する。 確かに主は恐ろしい。 というか、本当に恐ろしい唯一の方だ。 この世の者が私に加える攻撃の最たるものは私を殺すことだ。 私を殺した後は、私に攻撃することはできない。 しかし、神は違う。
私はたいてい、恐れるべき方(神)をないがしろにし、 恐れるべきではない者(神以外)を恐れている。
「主を恐れることは知識の初めである」
神は愛ではなかったのか、神はゆるしてくださる方ではなかったのか? その通り。神は愛である。神はゆるしてくださる。 自分の罪を告白し、悔い改める者を神は必ずゆるしてくださる。 人間の目にどんな大きな罪でも、 たとえ何度でも何度でも、本気で悔い改めれば、神はゆるしてくださる。
けれど神は甘い方ではない。この上なく恐ろしいお方。 その裁きは完全でその裁きは徹底している。 だからこそ、人はみな罪の報酬として死を受け取る。 そのためにこそ、イエスキリストはこの地上に来られた。 みなの身代わりとして十字架にかかるために。 つまり、こういうことだ。 神は厳しく恐ろしいお方で、裁きのルールを勝手に曲げることはなさらない。 だから罪をおかしたものをそのままでゆるすことは 神でさえおできにならない。
(というか、罪をおかすというのは神から全速力で逃げている状態であり、 神にゆるされ愛に生きるというのは神のうちにあるということだから、 罪をおかしたままゆるすというのはそもそも不可能なことなのではなかろうか)
裁きのルール(罪人は死)を曲げずに、 神さまは人々を救う方法を示された。 つまり、イエスキリストの身代わりの死である。 罪という借金の代理弁済といってもいい。
罪を犯さなかった唯一の人、イエスが死ぬことによって、 万人の罪はゆるされた。 もう、すでに、私たちはゆるされている。 神のゆるし、は裁きの基準を甘くすることによるゆるしではなく、 イエスキリストの死という途方もなく大きな代償によってなされているものだ。
神の恐ろしさ、裁きの厳しさ、いのちの意味、イエスの十字架の意義、 それを、今日の自分にあてはめるとき、ゆるしの意味を本当に深く知ることができる。 もちろん、それは自分の力で悟ることではなく、 神さまが恵みによって悟らせてくださることなのだが。
「主を恐れることは知識の初めである」
これをお読みになったあなたに、 神さまからの悟りが与えられ、神さまの愛が伝えられますように。