家族のためにとりなす祈り

結城浩

2000年3月31日

昨晩お祈り会があって、そこでいろいろと祈れたことがうれしい。 祈ることは本当に大事だ、といまさらながら気がつく。 最近、疲れた疲れたとよく言っていたけれど、 あれも全部、自分で抱え込もうとしていたのだろうなあ、と思う。 自分の悟りに頼って、自分の力で何かをやる、というのと、 神さまに祈って、神さまの導きの中で何かをやる、というのは、 外見的にはあまり違わないように見えるかもしれないが、 やっている本人にとっては天と地ほども違うのかもしれない。

昨日の祈り会では、破れ口に立ってとりなす祈りの大事さがテーマになっていた。 自分の罪を告白する祈り、自分の願いを主に聞いていただく祈りは大事だけれど、 それだけではなく、自分の家族の破れ口に立って祈る (自分が属している家族がおかした/おかしている罪のために、 とりなしの祈りを神さまに対して行う)のも大事。 家族、教会、地域、会社や学校、日本全体、世界全体の破れ口に立って、 とりなしの祈りをするのは大事。 自分個人としては罪をおかしていない場合でも、 自分が属している集団が神さまに喜ばれないことをやっている場合はたくさんある。 そのことをわれ関せずとするのではなく、とりなしの祈り(イエスさまに告白し、 ゆるしを乞う祈り)をしていくのは大事なことだ。 私たち個人は小さく、力はない。 直接その集団に働きかけて改善の活動ができる機会は少ないかもしれない。

しかし、祈ることはできる。

そして、自分の力で直接働きかけること以上に、 まずとりなしの祈りを捧げることは大事なのかもしれない。 それは、目に見えない(けれどもはるかに「リアル」である)霊の領域、 神さまの領域に働きかけることであり、 神さまに介入していただくことだからだ。 神さまの御手が動くとき、歴史もまた動く。 神ならぬ私たちの目には、物質的なこの世しか見えないことも多いけれど、 それを本当に動かしているのは、神の力なのだ。 だから、祈ろう。 小さい私たちだけれど、大胆に祈ろう。 私たちにはできないけれど、神さまにはできる。