結城浩
2004年5月4日〜22日
映画「パッション」は残酷? でも、自分の姿がその中に見えてくる。
映画「パッション」を家内と見てきました。
みなさん、これ、絶対見てください。
これは、劇場で観て、その世界の中に入り、 自分自身が「その場に私がいたら…」ということを体験する極めて重要な機会です。
特に、リーダー的な役割を果たす人、人と関わる仕事をする人、弱さを感じている人、 迷っている人、本物を求めている人、自分の生き方(ほんとうの生き方)を探り求めている人は、 クリスチャンであるかどうかに関わらず、観ることを強くお勧めします。
まずは、お勧めまで。
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さて、うまくまとまっていませんが、 映画を観た感想を書いてみました。
以下、思いつくままに。
映画「パッション」を通して、何も感じない人は少ないと思います。 あの十字架の残酷さ、そして十字架につけろと主張している人々の残酷さに対して。 ひどいなあ、と思う。見ていられない、と思う。 もしもそこから一歩進んで「でも、実は自分も、あれと同じことを毎日やっているのかも」と思えるかどうか。 誰かのことを「あいつなんかいなけりゃいいのに」と思うなら、それは自分がカヤパになっている。 「いや、そんなことは私はしてない」と言うなら、 それは自分がペテロになっている。 「ほんものの救い主なら、おれを助けてみろ」と言うなら、 イエスと共に十字架にかかった罪人の片割れと同じセリフを言ったことになる。
本屋さんに行くと聖書を買うことができる。 行かなくても、アマゾンで買える。 少し探せば、自分の家から通える教会も見つかる(ことが多い)。 教会に行かなくても、夜ねむるまえに「イエスさま、ごめんなさい。イエスさま、ありがとうございます」と祈ることはできる。
チャンスはいつでも、あなたの前にある。
どんなに忙しい人でも、 いますぐに「イエスさま、あなたを信じます。私の罪を赦してください」と祈ることができる。 時間は10秒もかからない。
自分の身勝手さを心から悔い改め、イエス・キリストを信じるなら、 あなたはたった今、クリスチャンになる一歩を踏み出すことができる。 永遠の命と、天国の約束と、神さまの子になる権利を得ることができる。
というような文章を書きながら、私は自分の身を省みる。
ネットでは偉そうなことを書いているけれど、実生活では「とほほ」なことが多々ある。 失敗も山ほどあるし、悔い改めるべきことは日々たくさんある。 でも、私はあまり後悔はしない。それから過去に引きずられないようにしている。 「こんな自分だから、神さまは私を助けることはできない」とは思わない。 神さまは私の弱いところに働いてくださる方だと信じている。 失敗したり、悔い改めるべきことがあったら、 何度でも何度でも、根気よく神さまに「ごめんなさい」しようと思っている。 「またどうせ同じ失敗をするに決まっているぜ…」というサタンのささやきが聞こえたら、 「確かに私は弱い。また失敗するかもしれない。でも、今ではないぞ! イエスさまのお名前で命じる、サタンよ出て行け!」と宣言する。
私は、イエスさまこそ本物の本物であり、聖書にこそ「人生の鍵」があると思っています。 本物の幸福の鍵、いのちにいたる鍵、生き生きと生きる鍵、喜びに満ちる鍵が。 自分の失敗を認めることは大事だけれど、 自分の失敗に引きずられるのではなく、自分を見つめるのではなく、 イエスさまを見上げて生きよう。
信仰は強制ではない。 その一歩を踏み出すかどうかは、あなたの意志にかかっている。 言い換えれば、あなたの自由だ。 イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、 自分の人生を神さまに導いていただきたい…そのように願うか/願わないかは、 あなたの心しだい、あなたの意志しだいだ。 「結婚してください」という申し出に「はい」と答えることもできるし、 「いいえ」と答えることもできる。
それはあなたの自由だ。
あなたの意志があなたの言葉にあらわれ、あなたの選択となる。 そしてあなたの未来を決める。