結城浩
1997年12月15日
駅のベンチに座って思いを巡らす。 祈りの小部屋で祈ることに、どんな意味があるのだろう…。 クリスチャンである私は答えを知っている…。 神さまを知ること、神さまを信じることが大きな解決への一歩だと知っているのに、 それを直接メールの送り手に訴えず、 この世の知識で返事を書くことにどんな意味があるのか…。 「宗教を押し付けないので、いいページです」というメールが来るが、 このメールに喜んでいいのだろうか…。 もしかしたら、きちんと語るべきことを単に水増ししているだけではないか…。 いや、そうではない…。 特に未信者に単に神さまを信じろ、といって何の意味があろうか…。 そうではなくて、相手の立場に立って思いを巡らすところに意味があるのだ…。 多くの思いが心に渦を巻く。 すると、即座に、 大きな声が心の中に響き渡る。 あなたは自分を何だと思っているのか。 いったい誰が主なのか。 すべてのことをつかさどるのは誰か。 あなたはあなたの なすべきことをせよ。 その一声が、議論をするふりをしておじ惑っている私のおそれを吹き飛ばす。 神の声。 聖書を通して感じているあの声、 教会で信徒同士の祈りを通じて耳慣れているあの声、 迷っている羊を集める羊飼いの声、 万軍を指揮する王の声、 そして、放蕩息子をかき抱く父の声。 その声が心の中に響くとき、私は神の存在を深く確信する。