プログラムの中の私らしさ
- Beauty -

夢空間への招待状

結城浩

画家の安野光雅さんがどこかでこんなことを書いていらした。

「物売りの呼び声はしだいに洗練されていくが、エンドレステープで流されている声はいつまでたっても変わらない」

なるほど。ずいぶん新鮮なものの見方をする人なのだな、と感心したのを覚えている。 - つまり、こういうことだ。石焼きイモでも物干し竿でもいいけれど、ともかく物売りが声を出しながら道をゆっくり進んでいく。もしも人間が肉声で呼び声を出しているのならば、長い時間が経つうち、その声にはひとりでに抑揚がつき、言葉も調子のよい言い回しに変わっていき、いつのまにか一種の様式美を伴った呼び声が生み出されていくであろう。

しかし、テープに一度だけ呼び声を録音し、それをグルグルと繰り返してスピーカで鳴らしているなら、当然ながら、いつまでもはじめに録音した通りの声が再現されているだけとなる。そこには美しさは生まれてこない。

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この話を思い返しているうちに、以前カリグラフィを習っていたときのことを思い出した。カリグラフィというのは、いうなれば「西洋書道」である。幅広の彫刻刀のようなペンをインクに浸し、ローマン体やスクリプト、ドイツのヒゲ文字などを描くのである。そう。文字を「書く」のではなく「描く」ような感じである。青い目の美しい女性のカリグラファの先生が指導してくださったのがなつかしい。

お手本を見て練習しているとき、私は正確に描くことばかりについ注意がいってしまう傾向があった。それを見抜いて先生は、私にこう言った。

「あなたは人間なのですから、印刷機になってはいけません。正確に描こうとせず、美しく描こうとしてください」

先生の「印刷機」すなわち "printer" という発音が今でも耳に残っている。印刷機にならないように。印刷したような文字が欲しいのなら、印刷機で印刷すればいいのである。何のために好んで自分の手で文字を描いているのか。よく考えなさい。先生はそのように語ってくださったのである。

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私は仕事柄、ほとんど毎日のようにプログラムを書いている。そしてそのプログラムは私の「プログラミングスタイル」で書かれたものとなっている。うまく言葉で言い表すのは難しいが、そのスタイルの中には私らしさと呼べるものが何かしら込められているように思われる。

そのプログラミングスタイルは、毎日毎日プログラムを書いているうちに生まれてきたものである。その中には単に手間を省くために考え出されたものもあるし、自分がはじめてプログラムを学んだときから続けているものもある。将来のデバッグやバージョンアップのことまでも考えて編み出された手法のときもあれば、とにかく短期間で「やっつける」ための便法もある。

いずれにしろ、そのスタイルは私のプログラミングの経験そのものである。物売りの呼び声のように、私の中で洗練されて生まれたものであると言えるし、私のプログラムの審美眼に見合ったものであると言えるだろう。

私は自分のプログラミングスタイルに愛着を持ち、それをさらに育てたいと願っている。プログラミングはエンドレステープのように変化のない繰り返しではないし、印刷機のように機械的なものでもない。プログラミングは、えも言えぬ抑揚のついた歌であり、見るものの目を楽しませる優美な曲線なのである。しかもその歌はまぎれもなく私自身の歌であり、曲線を描くのは私の指に他ならない。そこには必ず私らしさが現われてくるものなのである。プログラムを作る機械としての私ではなく、美を楽しむ人間としての私らしさが。

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 本敲を、仕事に疲れたプログラマに捧げます。

(Oh!PC、1992年7月30日)