大学を卒業し、仕事を始めたころ、人間関係で悩むことがあった。 悩んだすえ、友人に手紙を書いて相談した。 その手紙とは便箋に書いて封筒で出す手紙ではなく、 パソコン通信のいわゆる「電子メール」であった。
電子メールで悩みごとを相談した相手というのは、 パソコン通信で知り合った同業者であり、 それまで一度も顔を見たことがない人であった。 電子会議の書き込みを読んで知り合い、 電子メールのやりとりをすることで親好を深めた間柄である。 つまり、コンピュータが表示する文字だけを介した交際ということになる。
私は、その一度も直接会ったことのない友人からの電子メールの返事によってとても励まされ、 人間関係の問題も解決することができた。 コンピュータに表示される文字列は冷たくて無機的に感じられがちだが、 その友人が書いてくれた電子メールの言葉の向こうには、 あたたかないのちが息づいているように思われた。
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コンピュータの大きな会社に勤めている友人が最近結婚した。 新郎に会っておしゃべりしているうちに、新婦との交際の話になった。 彼が言うには「電子メールが結ぶ縁」だったのだそうだ。 新婦は新郎と同じコンピュータ会社に勤めていたが、オフィスは別れていたそうである。 仕事の関係で知り合った後、 デートの約束や毎日のおしゃべりなどはすべて電子メールを使って行っていたという。 もともとコンピュータを使う仕事だから、仕事中に相手にメールを出すことも可能だ(上司には怪しまれない)。 もっとも電子的なメディアがもっとも人間的な「結婚」の仲介になった例である。
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電子メールを使うと、いつもよいことが起こるとは限らない。 私は電子メールでケンカをしたことがある。 ある人が電子会議で意見を述べたのに対して、私がその反論を電子メールで送ったときのことである。
相手は、私が書いた電子メールが気に食わなかったらしく、 私が以前に行なった仕事に対していいがかりをつけるような内容の電子メールを返事として送ってきたのである。 それに対して私もムッときてしまい、その後はケンカ腰のメールのやりとりという泥沼になってしまったのである。
今から思うに、もし私たちが直接会って議論をしていたなら、 あれほどひどいケンカにはならなかったように感じる。 電子メールは便利だけれど、声のトーンやイントネーション、 それに顔の表情などが見えないため、 ついつい冷たくて強い語調に読まれてしまいがちなのである。 特に電子メールを使いはじめたばかりの人、コンピュータの感覚に慣れていない人にその傾向は強い。 パソコン通信の電子会議をのぞいてみると時折、誤解を元にしたケンカが見られる。
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電子メールという一つのメディアが、あるときは人の悩み事を解決する手段となり、 またあるときは恋愛を育てる仲介となる。 しかしときには誤解を助長し、人の間に亀裂を生じさせてしまう。不思議なものである。
電子メールがきちんと人の心を結びつける役目を果たすためには何が必要なのだろうか。 コンピュータが表示するものが冷たい文字列ではなく、息づくいのちの言葉となるためには何が必要なのだろうか。
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電子メールはメディアにすぎない。 それはやはり単なる情報伝達の手段である。大切なのは情報の担い手の心構えであろう。
「こういう書き方をしたら、相手はどう感じるだろうか」 「こういう話をするのには電子メールが適当だろうか」 「この件については誰に伝えることが大切だろうか」 …そういう気配りをすることが、一通のメール・一つの言葉にいのちを吹き込むように思われる。 それは、一言で言えば「相手に対する思いやり」ということかもしれない。それは「愛」と言ってもよい。
陳腐に聞こえるかもしれないが、いのちの言葉の土台は「愛」なのである。
(Oh!PC、1993年3月30日)