ワープロはやわらかい。
ワープロを使っているとき、私はなぜか「やわらかな手ざわり」を感じる。ふわっとやわらかい。ふにゃっとねばっこい。ワープロのキーを叩きながらそう感じるのである。
入力した文字が画面に表示されるタイミングがほんの少し遅れるところにそのやわらかさを感じるのかもしれない。
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ワープロは重い。
カーソル移動キーの下矢印を押し続ける。画面がどんどんスクロールしていく。そんなとき、キーを離してもすぐには画面が止まらず、ほんの少しだけスクロールし続けることがある。私の手は「ワープロの重さ」を感じてしまう。
動いている重いものを急に止めようと思っても止まらない。止まるまでずりずりっとすべってしまう。そんな物理的な手ごたえをワープロに感じてしまう。「慣性の法則」を思い出す。
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エディタは堅い。
反応速度が速いエディタを使っているときには「エディタの堅さ、軽さ」を感じる。入力文字のエコーバックが遅れない。スクロールの「慣性」もない。私はそのようなエディタが棒のように感じられる。そう。いくら振り回してもたわまず、振り回す腕と一体となってヒュンヒュン風を切る、堅くて軽い棒のように感じられるのである。
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考えてみれば不思議である。実際に私の手に触れているのはキーボードしかない。キーボードのタッチがやわらかくなったり堅くなったりするわけではないし、重くなったり軽くなったり、ましてやねばっこくなるわけではない。けれどもやはりソフトを使っている最中には、手ざわりを感じ、手ごたえを受けるのである。まったく不思議なものである。
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ソフトウェアを評価するとき、私たちはつい機能を重んじてしまう。そのソフトウェアを使うとどんなことができるかばかりに目がいってしまう。単なる機能ではなく、そのソフトのユーザインタフェースに目を向けたとしても、せいぜい画面のレイアウトだの、メニューを使うかコマンドを入力するか、マウスが使えるか、その程度しか考えない。
だが、ちょっと待ってほしい。実はユーザインタフェースというのはもっと奥が深いのではないだろうか。ソフトは機能が豊富でスピードが速ければいいというものではないはずだ。特にそのソフトが人間と対話的に使われるものであるならば。
微妙な反応速度の変化を人間は感じとる。そしてそこに一つのイメージを持つ。先ほどからの言葉遣いをするならば「ソフトの手ざわり」だ。そして、その手ざわりが自然に感じられるとき、私たちはそのソフトを本当に自分の使いやすい「道具」として認知するのではないだろうか。
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最近、コンピュータのパワーが増してきている。グラフィカルなユーザインタフェースに関心が向いてきている。これ自体はそんなに悪い話ではない。私が大切だと思うのは、ソフトを使っているときの感触、手ざわり、手ごたえである。ソフトを設計する人は、ユーザにどんな「道具」を提供するのかについてもっともっと深い洞察が必要なのではなかろうか。
一つのソフトを作るのは一つの道具を作ることである。それがどんな手ざわりをユーザに与える道具になるかを、十分に考え、それを実現するようなプログラミングをする必要があるように思われる。
ねばねばするノコギリなんて使いたくないし、ハタキの先が堅かったら役には立たないはずだ。けれども、私たちが使っているソフトウェアという道具は実はそれに近い状態なのかもしれない。
(Oh!PC、1991年8月15日)