礼拝の意味

結城浩

結城です。

朝は教会の礼拝に参加し、
それから家族みんなで買い物をしました。
朝は雨が降っていたけれど、昼頃は雨も上がり、
曇り空の中にも晴れ間が見える天気になりました。

家で小さなおにぎりを3つ作っておき、
町を歩いていてお腹がすいたときにぱくぱく食べました。
それでもお昼過ぎにはさらにお腹がすいたので、
フレッシュネスバーガーでハンバーガーを食べました。

教会に行きはじめてまもないころは、
礼拝の意味がよくわかっていなかったように思います。
牧師さんのメッセージが大事なのはわかっていたけれど、
その前の讃美歌が重要なものだとは思っていませんでした。
神さまが賛美の内に住まわれることを知らなかったのですね。

神さまのことがよくわかっていないとき、
礼拝、というのを単なる講義か講演のようなものとして
考えていたように思うんです。
牧師が「いいお話」をする。聴衆は講演料として「献金」をする。
そんな図式でとらえていたように思います。
(もちろん、その当時はそう意識していることにも
 気が付いていなかったんですが)

でも今は、礼拝というものをずいぶん違うものとして
とらえるようになりました。
礼拝の中心にいるのは牧師ではなく、神さまご自身であること。
講演を聞きにいっているわけではなく、
私たちが礼拝に「参加」し、
神さまを「ほめたたえ」に行っているだということ。
そして、目に見えるものの働きだけではなく、
目に見えない「霊」である神さまが
「ほかでもない私自身」に働かれるのだということ。
…うーん、うまく言い表わせないんだけれど、そんな感じです。

私たちは、なぜ目に見えるものに左右されるのでしょうね。

罪が入り込んだのも目に見えるものに惑わされたからでした。

エバの場合でも。
「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、
 目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」
 (創世記3:6)

ダビデの場合でも。
「ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。
 その女は非常に美しかった。」
 (サムエル上 11:2より)

罪が目から入ってくるのに対し、信仰は聞くことからはじまるようです。

…

いま家内は裁縫をしています。
同じ机の上で、息子も裁縫(のまねごと)をしています。
私は白いソファでリラックスして、
あなたに手紙を書いています。

いつも、とりとめもない話を聞いてくださってありがとうございます。
では。

 天の父なる神さま。御名を賛美します。
 この手紙を読む方の、今週一週間の働きをお守り下さい。
 主がいつもともにおられますように。
 人間が考える道ではなく、神さまが正しい道をお示し下さい。
 聖霊様が私たちを導いてください。
 イエスさまのお名前でお祈りをいたします。
 アーメン。