困難な状況の中で

結城浩

結城です。
今日は仕事で少しくたびれました。
ふう…と一息ついたら、何だかあなたにお手紙を書きたくなりました。
今日はいかがお過ごしですか。

最近、結城のページにある「ロバ耳」という企画のことを思います。
http://www.hyuki.com/roba/
書かれた文章をわたしが読むのですが、返事はしない。
どんな形の返事もしない、という変なページです。

このページのもともとのヒントは、昔アダルトチルドレン関係の
掲示板にあった「レス禁止(他の人へのコメント禁止)」という注意書きでした。
ちょっとそれが「目からウロコ」でして、
「ああ、こういうのも『あり』なんだ」って思ったんです。

ロバ耳はたくさんの方がいろんなやり方で利用してくださっています。
たとえ返事がなくても「誰かに自分の声が届いている」というのは、
意味深いものなのだな、と思います。

返事がない、安心して話せることもあるのですね。
レスがつかないということで、リラックスできることもあるようです。
何を言っても怒られない。
妙に心をゆさぶられるアドバイス
(よいものであれ、わるいものであれ)もやってこない。
そういう環境で解き放たれる心もあるのですね。

ロバ耳のような企画をやって、
結城さんの心がいっぱいになったり、負担になったりしませんか?
とメールでご心配いただいたこともありますが、
まったくそういうことはないから感謝ですね。
重いもの(重い思い?)はすべて「神さま」にお預けできるからかもしれません。

今日はコリント人への手紙を読んでいました。
パウロ先生の文章は力があってリズムがあって、とても好きです。
思い返すに、私がまじめに聖書を読みはじめたのは
いまから10年ほど前(!)になります。
創世記を読んだり、マタイによる福音書を読んだりしていたのですが、
一番心にしっくりきて「ああ、そうだ、そうだなあ」と思ったのが
ローマ人への手紙でした。後ほど、あの手紙が異邦人のために書かれたもので
あることを知り、とても納得したのを覚えています。
「ああ、これは私の救いのために書かれた手紙なのだ」

で、コリント人への手紙第一。
13章の愛の賛歌や、異言と預言の話など、興味深い手紙なのですが、
この手紙は道徳的に、また性的にも非常に乱れた教会に向けて書かれたものですよね。
パウロ先生は厳しくも愛をもって教え、戒め、諭しているわけです。
でも、私は今日この手紙を読みながら、別のことを考えていました。
乱れた教会があった。しかし神さまはそのことを通しても素晴らしいことをなさった。
その教会へ向けた手紙という形で神さまの御心が現代の私たちに届くようになさった。
そんなことを考えていたのです。

もちろん、悪いことを正当化したり、ごまかしたりする、という意味ではありません。
人間にはとんでもない事態、非常に困難な状況のように思われても、
決して落胆したり、絶望したりしてはならないなあ、と思うのです。
失敗や困難は確かに失敗や困難なのだが、
そこを通しても神さまは驚天動地の大逆転を行われる、と思うのです。
神さまの思いは、確かに人間の思いをはるかに越えておられるのです。

失敗や罪の結果、失われるものも確かにあります。
そして一度失われたものは、そのままの形では取り戻すことはできません。
アダムとエバの堕落によって失われた楽園は、いったん失われたのです。
何事もなかったようにそこに帰るわけにはいかなくって、
イエスキリストの十字架という驚天動地の大逆転を必要としたのですね。
そのような、人間の想像を絶するようなことが、
神さまのなさり方なのだと思います。

ぱらぱらと雨が降ってきました。
気がつくと、もうこんな時間なのですね。

あなたの今日はどんな日でしたか。
どんなものを食べ、誰と会って、何を思いましたか。
楽しいことは何かありましたか。
困ったことはありませんでしたか。
もうすぐ今日も終わりですね。
一日の終わりに、こうやってあなたにお手紙を送ることができるのは
とてもしあわせです。

それでは、また。
おやすみなさい…(^_^)