結城浩
結城です。いかがお過ごしですか。 月末は仕事が山積みで、なかなかつらいものがあります。 仕事に対して及び腰になると、取り掛かるのがついおっくうになり、 悪循環に入ってしまいます。 もともと、文章を書いたりプログラムを書いたりは、 好きでやっている仕事なので、取り掛かりさえすれば、 割合にスムーズに進むのです。でも、取り掛かるまでが大変。 手を洗ったり、ソファでごろごろしたり、お祈りしたり、 まあ、いろいろと、ね。 今晩はもう仕事はしないので、ビールが入っています。*^_^* 机の上で頬杖ついて、仕事のことを考えたり、 家内のことを考えたり、あなたのことを考えたりしています。 彼女(今の家内)と付き合っていたころ、 私はたくさんのラブレターを書きました。 いまのインターネットの日記の更新頻度よりも高かったですね(^_^) 家内と私は遠距離恋愛でしたから、 (電話もしましたけれど) ラブレターはとても大切な通信手段でした。 ラブレターの中には、互いのことや信仰のこと、 それに毎日のたあいもない出来事などを書いていました。 そのころ、私は求道中で、 すでにクリスチャンだった彼女(家内)から、多くのことを学びました。 彼女も熱心に本を紹介したりしてくれました。 三浦綾子さんの三部作もそのころ読みました。 チェスタトンも、C.S.ルイスも、彼女の蔵書から借りて読みました。 そのころ私は、彼女と結婚したいという気持ちを持っていました。 そして、またイエスキリストを自分の救い主として受け入れる 気持ちも固まっていました。 「私は彼女と結婚したいからクリスチャンになるのか、 それともそういう思惑なしにキリストを信じているのか?」 などと自問したものです。まあ、若かったと言いましょうか。 でも、それはそのときの自分にとっては大切な問いでした。 細かい経緯は覚えていないのですが、 聖書のヨハネ4:42が解決だったように思います。 確かにイントロは彼女だったかもしれない。 彼女を通してイエスさまのことを知り、 彼女と結婚しようと思ったからこそ、 彼女が大事にしているものを知りたいと思ったのだ。 しかし、いまや、私は「自分で聞いて信じている」のだと気づいたのです。 そのとき、私は、よく教会で言われるフレーズ 「イエスさまを自分の個人的な救い主として受け入れる」 の「個人的な」という意味をはっと悟ったように思います。 神様と自分の一対一の関係、イエスさまと自分の「個人的な」関係の意味を。 信仰は強制ではない。 他の誰でもない私が、自分の耳で福音を聞き、 そして主の恵みのうちに信じることができたのだと思ったのです。 若き日にあなたの創り主を覚えよ、と聖書にあります。 私が信仰を得たのは20代の前半でした。 もし、もっと早くイエスさまの救いを信じることができたなら、 また私の人生は変わっていたかもしれません。 しかし、人生に「もし」はない。 神の時は最善の時。 私があのとき、彼女から福音を聞き、聖書を学び、 信仰を得、そして洗礼を受けることができたのもまた、 神様の大きな計画の中にあったのだと信じます。 毎日、忙しかったり、あわただしかったり、 途方にくれたり、頭を悩ませたり… いろんな日があります。 いろんな時があります。 しかし、それもまた私の人生なのだと思います。 神様が与えてくださった貴重な一日、貴重な人生。 なかなか自分の思うように生きることはできないけれど、 自分が願うとおりではなく、神様が願うとおりに生きたい。 聖書は、神様からのラブレター。 いつも私の手紙を読んでくださって、ありがとう。 おやすみなさい。