結城浩
こんばんは。結城です。暑いです(^_^; いかがお過ごしですか。 里帰り出産していた家内が帰ってきて、 次男(赤ちゃん)がやってきて、めまぐるしい日々が続いています。 忙しいですけれど、感謝なことです。 ムーニーの大きなパッケージをかかえて階段をのぼるとき、 ふと、しあわせを感じたりします。 長男(5歳)は、年が離れているせいか、 特に次男に嫉妬したりするようすはあまり見えず、 むしろべたべたにかわいがっています。 結構なことですね。 仕事もあれこれと忙しいですが、楽しみつつやっております。 先日、駅のホームに立っているとき、ふと、 とても大きなパースペクティヴで自分の人生を感じました。 いま私は36歳で(主の恵みがあれば)あと数十年この人生を生きていくのだな、と。 その間、さまざまなことで、 悩んだり、喜んだり、泣いたり、笑ったりするだろう。 多くのものが私の傍らを通りすぎていくだろう。 けれど、いつか、神の定めたときに、 私はイエスさまによって天に引き上げていただくのだなあ、と思ったのでした。 確かに、私はこの世を旅する旅人だ。 懸命に旅をするのだけれど、最後の最後はなつかしの我が家に帰るのだ。 旅の最中、真剣に歩くのだけれど、 その途上で出会ったものに必要以上に心をとめすぎてはいけないのだ。 いつか、私は、鷲のように天に上るのだろう。 イエスさまの愛に抱かれて。 いつか、私は、この小さくて不完全な体を脱ぎ捨てる。 神様から完全な体をいただくのだ。 だから、それまでは、このいとしき私の人生を歩んでいく。 イエスさまに対する信仰を得て歩むとき、 人生は天国へ至る道のように思われる。 旅が不自由なのは当然のことだ。旅なのだから。 身にまとうものや手荷物は厳選し、必要なものだけを携えよう。 さもないと軽やかに歩むことができない。 一番重い荷物はプライドかな。(^_^; 実存的な不安? そう、それがあるのは当然のことだ。 それは旅の途中で感じる不安なのだ。 でも、大丈夫。 自分が最後にどこに至るのかをしっかりわきまえていれば。 そして私とともに歩んでおられる方、私のうちにおられる方、 私の上に霊を注いでくださる方にしっかりと目をとめ、耳を傾けていれば。 この世のものはみなうつろい、みな過ぎていく。 でも、神様はかわることがない。 「すべての人は草、その栄光は、すべて野の花のようだ。 主のいぶきがその上に吹くと、 草は枯れ、花はしぼむ。 まことに、民は草だ。 草は枯れ、花はしぼむ。 だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」 (イザヤ書40章6節〜8節より) いつも私のひとりごとを聞いてくださって、ありがとうございます。 あなたの上に主の恵みと祝福が豊かにありますように。 おやすみなさい。