Integral
結城浩
二次会が終わると、友人たちは三次会に流れていってしまった。 時計を見ると10時23分。帰るにはまだちょっと早い。 酔いざましに一人でコーヒーでも飲もうと、ホテルのロビーに入った。
ロビーには、あまり人はいなかった。 僕は手近なソファに腰をおろし、 高い天井のシャンデリアを眺める。 向こうのラウンジからピアノの音が静かに流れてくる。 いったん座ってしまったら、あまり動く気がしない。 ラウンジまで歩いてコーヒーを飲むのはいささか面倒だ。
ふと、斜向かいのソファに座っている若い女性に気がついた。 やわらかな素材の白いワンピースに、長い黒髪。 彼女はソファの前にあるガラスのテーブルに向かって、何かを書いている。 顔を伏せていて、表情はよく見えない。 大きな紙に向かってペンを走らせているらしい。 ゆったりしたロビーの雰囲気とはうらはらに、 彼女のまわりだけ空気が張り詰めている。
何を書いているのだろう、と僕は思った。 何かをスケッチしているのかな。 いや、違う。 彼女は何かを見ながら書いているのではない。 少しも顔を上げないからだ。 小説や手紙でもない。あまりにもスピードが速すぎる。
僕は彼女をじっと見る。 しばらく見ていると、彼女の手が妙に規則的な動きをしているのに気がついた。 彼女は横書きをしている。 一行の中ほどにくると、ペンを上下に何回か大きく動かす。 そしてまた書き続ける。 次の行も同じだ。 一行の中ほどで、まるで激しい波を描いているように、ペンが上下に動く。 リズムに合わせて髪がゆれる。
何を書いているのだろう。
そのとき、太った背広の男が一人、彼女に近寄ってきた。 かなり酔っているらしく、足元がふらついている。 男は、にやにやしながら彼女に向かって何かを話しかける。 彼女の知り合いではなさそうだ。 話しかけられても彼女は返事をしない。顔も上げない。ペースも変えず、ひたすらペンを走らせる。 男はしつこく話しかける。 しまいに男は、彼女が書いている紙に手をのばした。
そのときはじめて、彼女は顔をあげて言った。
「その手をどけなさい」
男も、そして私までも、その声に思わずびくりとした。
彼は何か言い返そうとする。そしてためらう。 結局、彼は肩をすくめてその場を立ち去った。 彼女はすでに紙に視線を戻し、書き物を続けている。 ラウンジのピアノが聞こえてくる。
と、僕の心に《アルキメデス》という名前が出し抜けに浮かんだ。
アルキメデスは、シラクサ落城の日も、床の上に円を描いて研究を続けていた。 武装したローマ兵が彼の家に乱入し、一人がアルキメデスの円を踏みつける。 そのとき、アルキメデスが思わず叫んだ。
「その円を踏むな」
これがアルキメデスの最期の言葉となった。
彼女が書いているのは数式に違いない、と僕が確信したのはそのときだ。 あの、リズミカルに上から下へ動く手は、積分記号を書いていたのだ。
ゼロから無限への、インテグラルを。
(2004年6月13日)