Mienai Turugi
結城浩
王子は恐かった。
王子は大臣の顔がゆっくり黒ずんでいくのを目のあたりに見た。 それはまるで、白い紙を墨にひたしたようだった。 そして大臣はしだいに大きくなってきた。 いつのまにか大臣は広間の天井に届かんばかりになっていたのである。
王子は二、三歩あとずさりした。 黒ずんだ大臣が広間を埋め尽くしていくとともに、 王子の心の中は黒い恐怖で覆われていく。
どうしたらいいだろう。
老臣はすでに机にもたれて眠りこんでいる。 今から近衛兵を呼ぶことはできない。 膨れ上がった黒大臣のからだは、すっかり入り口を覆い尽くしているからだ。 もう、逃げられない。 王子は短剣を抜いて大臣へ向かっていった。
王子の短剣は役に立たなかった。 煙のような皮膚の中には、 氷のように冷たくて 鉄のように堅い体が隠れていた。 あまりの冷たさに王子は短剣を取り落とした。 王子はもはや武器を持っていない。
王子の目がかすみはじめ、 叫び出したいほど息苦しくなったとき、 王子は、王から託された見えない剣のことを思い出した。
王は、空の鞘を王子に手渡しながら、こう言った。
「王子よ。 他になす術がないとき、 この剣を抜くのだ。 そのときでなければこの剣を抜くことはできない」
王子の腹がきりりと痛んだ。 急に腰の鞘が重くなった。 まるで本当の長剣をさしているかのように。
もはや、王子の目はほとんど見えなくなっていた。 王子は黒い煙で痛む目をつぶったまま、 腰にいつも下げていた、空の鞘へ手をのばした。 のばした手に剣のつかが触れた。王子は驚いた。
剣がある。
王子は力いっぱい剣を引いた。 はじめは剣がさびついて抜けないのかと思った。 剣があまりにも重く、ゆっくりとしか動かなかったからだ。 満身の力をこめ、大きな鉛の扉を開くように、 王子は剣を引いていった。
じりじりと剣は抜け、しだいにその速度を増していく。 王子は目を堅く閉じたまま、ついに剣を抜き放った。 王子は目を閉じていたにもかかわらず、剣を見ることができた。 それは光り輝いていた。 虹のような光、しかし七色に限られているわけではない。 無数の光がひしめきあって一つの燃える束となり、 その光が剣の切っ先から蒸気のように吹き出しているのであった。 それは確かに剣であった。 しかし青銅でもなく鉄でもない。 切るためのものではあったが、金属でできているのではなかった。
王子はわれ知らず、両手で剣を持っていた。 ちょうど太陽の光が重さを持たぬように、 その剣は重さを持たなかった。 しかし、その剣を片手で持つことはできなかった。 両手を使い、全身を使ってその剣を支え、 全霊をもってその剣の存在を感じていなくてはならなかった。
王子はいつのまにか、祈りを唱えていた。 「父と子と聖霊の御名により…」 そして王子はすべてを剣にゆだね、 大上段に構えると、黒大臣のかつては頭であった暗闇に剣を振り下ろした…。
王子は剣の道を修めていたから、切るということを知っていた。 実戦経験こそ少ないものの、 戦場で敵を切り倒すときの手の感触を知っていた。 人を切る手応え、肉を切り、筋を絶ち、 そしてついに骨を砕く瞬間の手応えを知っていた。 敵が苦悶の声を上げて倒れる時の臭い、妙な疲れと喜びを知っていた。 しかし、この聖なる剣を使って黒大臣を切り放ったときに王子が感じたものは、 それとはまったく異なっていた。
王子は黒大臣の肉を切り割く感触を手に感じながら、 切ることの新しい意味を知った。 これまで王子が切ったのはいつも自分の身を守り、 相手の命を絶つためであった。 相手を切り、相手の命を絶つことが目的であった。
しかし、この聖なる剣を使って黒大臣を切るとき、 王子はまったく別のことを考えていた。 大臣は悪い男ではあったが、人間としては小物、俗物であり、 とるに足りない存在であった。 しかしあの時から、 大臣がまがまがしいものに体をゆだねたあの日から、 大臣はもはや人間ではなくなったのであった。
聖なる剣がやろうとしていたのは、大臣の命を奪うことではなかった。 大臣と結びついているまがまがしいものを 大臣から切り離すことであった。 この世で結びついてはならないもの、 それを解き放つためにこそ、聖なる剣は振るわれるのであった。
王子が黒大臣を切っていたのはほんの一瞬のことであった。 目を閉じたまま、両手で聖なる剣を大上段に構え、 王子は一気にその剣を振り下ろした。 黒大臣はチーズのように二つに分かれた。 そしてそのそれぞれは突風にあおられた煙のように即座にかき消えた。 部屋に満ちていた息苦しさがなくなった。
再び外の鳥のさえずりが聞こえてきた。 王子は振り下ろした剣を両手でぐるりとまわすと、鞘に収めた。 その剣は、まるで自分の務めを終えたかのように静かに鞘に収まった。 それと同時にあふれんばかりの光の流れもまた失われた。 王子の右手は勢いあまって鞘に思い切り突き当たった。
その鋭い痛みによって、王子ははじめて目を開いた。 広間には黒大臣の姿はなかった。 老臣は机に伏せったまま眠り込んでいる。 先ほどまで、王子の目にしみ込んできた煙はなくなっていた。 王子は右手に目をやった。 親指から真っ赤な血がしたたっていた。 王子は腰の鞘を見た。 からっぽだった。 聖なる剣は再びその姿を消したのだ。
黒大臣が膨れ上がるのを見、剣を抜き、一太刀あびせ、 黒大臣が消えるまでのさっきの出来事がまるで別世界で行われたかのようであった。 王子が目をつぶっている間に戦いは別のところで行われ、 王子はただそこにいただけであった…いや、そうではない。 黒大臣は確かに王子に向かってきていた。
王子は恐かった。
心の深い奥から暗黒な何かが這いのぼってくるのを感じていた。 このまま放っておけば、王子の心はその何かに覆い尽くされ、 虚無へ至ることがわかっていた。
王子は恐かった。
だから剣を抜いたのだ。だから剣を抜けたのだ。 自分の力ではどうにもならないとき、 そのことを自覚した瞬間に最後にできること…それが、 見えない聖なる剣を抜くことだったのだ。
本当の戦いは確かに王子の力で行われたのではなかったのかもしれない。 しかし、その戦いの始まりは間違いなく王子の意志だった。 老臣は眠らされていた。出口はふさがれていた。 そのとき剣を抜くことができたのは、 世界中で王子たった一人だったのだ。 …王子はここまで考えて、 心地よい疲れを感じ、深い眠りに襲われた。 入り口を破って入ってきた近衛兵に自分の体をゆだねながら。
(1997年9月8日)