ヨウマさん

Youma san

結城浩

(グラスの砕ける音)

あ、す、すみません。 いまグラスをテーブルから落としてしまって。 いま、少しあとでかけなおしますね。すみません。 …え、そうなんですか。そうなら、じゃあ、いいです。ええ、たいしたことじゃないです。

ええ、私は主人に聞きました。いいえ、どういう経緯かは知りませんけれど。 私、主人に言ったんです。それって、私が毎日見ているページよ、って。 すごく驚きました。でも、そんなことはどうでもいいですよね。 …ええ、かまいません。私、好きなように話しますので、あとは自由にしていただければ。

…まず、自分のことから話したほうがいいんでしょうねえ。 考えてみると、私はメールも出したことがないので、 私のことはまったくご存じないわけですよね。 毎日ページを見ていると、そんな感じがぜんぜんしないんですけれど、 それは私の勝手な考えですよね。

こほん。ええと、私は結婚していて、会社に勤めています。 コンピュータ関係、というかソフトウェア関係の仕事をしています。 結婚しています。はい。 主人は有名な商社、ええと、すごく有名な商社につとめています。 私の仕事はSEと営業の中間みたいなことをやっています。 私の会社はそんなに大きくないです。 就職したときには私は自分のやりたいことができるような会社、 ということで選んだのであまり会社の規模は考えていませんでした。

私自身はコードを書きませんが、プログラムやコンピュータのことはよく理解しています。 ええ、理解しているつもりです。自分の部下の作業見積もりを自分で検証することができます。 顧客に対しても自分の言葉で技術的な内容も、プロジェクト全体の方向性も語ることができます。 いまはもうやりませんけれど、やる気になれば自分でコードを書くことも大丈夫だと思っています。 仕事は充実していて楽しいし、上司とも部下ともよい関係を保っている、と自分では思っています。

子供は二人いて、上の子(女の子)は今度中学生、下の子(男の子)は今度小学三年生になります。 ええ、日記の子育ての話や、息子さんとの対話は楽しく読んでいます。あれ、面白いですね。 もちろん家族でケンカしたりすることもありますが、まずまずなかよく暮らしていると思っています。 私も主人と仲がよく、平和な毎日を過ごしています。 何だか絵に描いたような人生みたい、と自分で思うこともあります。

でも。

贅沢なのかもしれませんけれど、私はときどき不安になります。 こんなにしあわせを絵に描いたような人生であっても。 自分に命があって、きらきら光る朝と、 しっとり静かな夜が与えられていても、私は不安です。

不安。

自分がこれでよいのか、自分はこういう生き方でいいのか、と不安です。

ええ。たいていの場合は私は忙しくてそんなことを考える暇すらありません。

けれど。

ときどき、たとえばプロジェクトが一段落して上司と部下たちと飲み会にいった帰り、 終電車の中で、私は考えるんです。 私は誰なんだろう。このまま毎日、少しずつ少しずつ年をとって、 最後に死んでいくだけの存在なのかって。 何だか馬鹿みたいです。 まるで自分の娘の年代に考えるようなことを、私はつい考えてしまうんです。 思春期のころって考えますよね。私が何か。自分はこれでいいのか。 命とは何か。人生とは何か。 そういう青臭い話を、中年に近づいた自分が考えているのが何だか恥ずかしいような気がします。

ええ、私は毎日生き生きと生きています。 夫婦の関係、家族の関係、仕事の関係、そのすべてで私は生き生きと生きているように思います。 なのに、どうしてこんなふうに心の中がからっぽな気分になるのでしょうか。 私、何か間違っているんでしょうか。 私はいつか年をとって死んでしまう。 そうですよね。 でも、きっと、いま死んだら、何か後悔しそうな気がするんです。 すごく大きな後悔をしそうな気がします。 私はこんな人生を送りたかったんじゃない!って死ぬ間際に叫びそうな気がするんです。

たくさんのことをやってきて、たくさんのことを考えてきて、 でも、私は何一つなしとげていない。 私は自分がこの地上に生きてきたしるしを何かつかみたいと考えているのです。 でも、それが何か私にはわからない。 あなたにはわかるのでしょうか。 ねえ、あなたは、それがわかっているんですか。

いつか私にも、何かがわかる日が来るのでしょうか。 かといって、現在の仕事や現在の家族や主人をどうこうしようというわけでもありません。 私は現在の私に完全に満足しています。でも、完全に不満なんです。 私は、本当の私を知りたいだけなんです。 こんなこと、主人にも言えません。 またおかしな雑誌でも見たのかと馬鹿にされそうだからです。

私はただ。 私はただ、ときどき、猛烈な不安に襲われてしまうことがあり、 しかもそこから逃れるすべを知らないのです。 ただ私は何とかこの不安の影、不安の嵐が過ぎ去ってくれることを願いながら、 布団を頭からかぶって震えている少女のように自分のことを考えてしまうのです。

キリスト教にその解決はあるのでしょうか。 教会に行き、聖書を読めば、解決するのでしょうか。 私にはそうは思えない。でもそうかもしれない。 それとも自分の何かが、悟りが?努力が?必要なのでしょうか。 私にはわからないし、私は知りたいし、でも、恐いのです。

もう泣きたくなるくらい苦しいときもあります。 そしてそういうときに限って主人は出張だったりするのです。 私が押しつぶされそうになっているというのに。

え? はい、 ぜひ祈ってください。

ありがとうございます……。 確かに、それは、実存的な苦しみといえます。 すごく根っこのところにあるんです。私のいまの苦しさって。 年齢も関係がなく、収入や、家族とも関係がない。 いえ、関係がなくはないんですけれど…。 すごく個人的な感じがするんです。 主人は私が落ち込むといつもやさしくはげましたり、 笑い飛ばしたりしてくれるんですけれど、 そしてそういう主人をありがたいと思っているんですけれど、 それは直接的な解決ではないんです。 私はわがままなんでしょうか。欲深なんでしょうか。 私は、ただ、自分が自分であるというのがどういうことなのか、知りたいだけなんです。 自分勝手な人生を生きたいわけじゃないんです。それはわかってください。 ときどき、自分の家族が、影のような存在に見えてしまいます。 仕事もむなしく、知識もむなしく、お金もむなしい。 その中で私は、しっかりした何か、ほんとうに崩れない、 むなしくない何かを、なんとかして捕まえたいのです。

(2003年4月23日)