結城浩
このページでは、 結城浩が文章を書くときに心がけていること、 心がけたいと思っていることをまとめます。
結城が書く文章は、主に 書籍・連載記事・日記・手紙・電子メール・仕様書・ プログラムのコメント・マニュアルなどです。 こういった文章をあなたもお書きになるのなら、 参考になるかもしれません。
文章を読むのは読者である。 したがって、読者のことを考えるのは当然のことと言える。 けれど、読者のことをつい忘れてしまうのが、書き手の常なのである。
「誰がその文章を読むのか」をよく考えよう。 技術者か、OLか、男性か、女性か、子供か、大人か、 多数の人か、たった一人か。それともまったく不特定なのか。 読者をはっきりとイメージしながら書くとき、 わかりやすい文章が書ける。
読者は何を知っているだろう。 あなたの文章を「そこまで読んできた」読者は何を知っているだろう。 次に何を知りたいと思うだろう。 実例を上げるとしたら、どんな分野のどのような例が適切だろうか。
冒頭は、読者が知っていることから書き始めよう。 読者にまずうなずかせよう。うん、うん、そうだね。と言わせよう。 既知の国から未知の国へ、ゆっくりと連れて行こう。
一度にたくさんの未知のことを言わないようにしよう。 一歩一歩進めるように工夫しよう。 説明文は吊り橋のようなものだ。横木が一本なくても谷底に落ちる読者がいる。
読者はあなたのその文章を読んで、 どんな感じを受けるだろう。 ここちよい感じ? 不愉快な感じ? きっちり厳格な感じ? くだけた感じ? 静かな感じ? やかましい感じ? どんな感じ?
そして、あなたの伝えたいことと、その「感じ」は一致しているだろうか。
読者と対話している意識で書こう。 読者は馬鹿ではない。自分の頭で考えているのだ。 しかし、読者はありとあらゆる間違いをする。 間違いを早期に未然に防ぐように工夫しよう。
全部を説明しなくてもいいのだ。 説明が理解を妨げる場合だってある。 くどすぎる説明が重要点をぼかしてしまうからだ。
読者に命令しても無駄だ。読者に強制しても無駄だ。 読者は本を閉じる自由を持っているのだから。 文章の調子を変化させて、読者を飽きさせないようにしよう。 読者を自分の枠に押し込めないようにしよう。 ここから先はあなたの自由にどうぞ、という余地を残そう。
文章を書くのは自分である。 したがって、自分のことを考えるのはとても大切。 でも、自分のことを考えると、 めげたり、幻滅したり、うんざりしたりしがちなものだ。 でも、実は、そこにこそ、あなたのよさがあったりする。 あなたは、あなたのままでいいんです。
「さあ、文章を書かなくちゃ」というのは気分が重くなるものである。 書き始められればだいぶ楽なのだが、 書き始めるまでが大変…。 そういうときは自分の気分をなだめてやり、警戒心を解いてあげる工夫が必要だ。 いい方法は、「書こうとしない」こと。 「読もうとする」のだ。
「さあ、これまで私は何を書いたっけ。それを読むことにしよう」
と思うのだ。「本当に読むだけでいいんだよ。でも、書きたくなったら書いてもいいけど」と自分に言い聞かせるのである。
そうやって、これまで書いた分を丁寧に読んでいく。 読んでいくうちに、頭にふわふわと何かが浮かんでくる。 疑問点かもしれないし、細かい校正かもしれない。 また新たに調べたいことかもしれない。次の章のアイディアかもしれない。 そしたら、自然に書き始められるのである。
なかなか自分をなだめられないときもある。 そういうときには、「読もうとしない」手もある。
「さあ、これまで私は何を書いたっけ。ファイルを開くことにしよう」
と思うのだ。「本当にエディタを起動し、ファイルを開くだけでいいんだよ。 でも、読みたくなったら読んでもいいけど」と自分に言い聞かせるのである。
自分に「何でも書いていいんだよ」と言い聞かせよう。 校閲作業をしながら書き進めるのはとても難しい。 しょっちゅう、 「それはダメ」 「そんな書き方じゃダメ」 「それは話題が違う」 などと言われながら書けるもんじゃない。
「何でも書いていいんだよ」 「うまい表現だね。もっとうまい表現はあるかな」 「その話題もいいね。一応書いておいてあとで編集すればいいね」
などと自分に言いながら書くのだ。
惜しげなく人に伝えよう。 惜しげなく人に与えよう。 最も良いものを人に与えてしまおう。 そうすれば、もっと良いものが必ずやってくる。 表現を惜しんだり、伝えるのを惜しむと、 アイディアも表現もどんどんしぼんでしまうもの。
あなたのアイディアが100%あなたのものということはない。 参考にした本、 参考になった人の言葉、 参考になった人のURL、 そういったものに敬意を払おう。 神経質になりすぎる必要はないけれど。
書くのは大変なこと、書き続けるのはもっと大変なこと。 だからこそよい方法を探そう。 けれども文章を書くための、万能の方法があるわけではない。 それを唱えればもう大丈夫という万能の魔法の呪文は存在しないのだ。
ときどき、「これが魔法の呪文だ」という気分になることがある。 そう、その呪文はそのときは非常に有効だ。 けれども次の機会には何の役にも立たないということを あなたは発見するだろう。 魔法の呪文は一回限りだ。 別の時には別の呪文が必要だ。 それをあなたは繰り返し発見していかなくてはならない。
そしてそれがそのまま「文章を書く」ということなのだ。
書く内容を自分がよく理解しよう。 自分が理解していないことを人に説明することはできない。 自分が理解するプロセスで抱いた疑問を大事にしよう。 それは読者も抱く可能性のある疑問だから。
けれども、完全に理解してから書き始めようとしてはいけない。 なぜなら、書くことも理解を助けるからだ。 書くためにはよく理解しよう。 しかし、理解するために書き始めよう。
自分の知識を誇るために書くのをやめよう。 調べたこと全部を盛り込もうとするのをやめよう。 機械的に何かを引用するのをやめよう。 衒学趣味に走るのをやめよう。 読者不在の文章を書くのをやめよう。 時間をかけて苦労して、人の迷惑になることを書くのはやめよう。 (個人的に書いているならいいけれど)
文章は言葉で書くもの。 ですから言葉の取り扱いに注意を払うのは大切なことです。 それは単なる技術にすぎないかもしれない。 けれどもあなたの言いたいことは、 すべて言葉を通して読者に伝わることをお忘れなく。
長い文は注意して使うこと。 これは、主に、主語のねじれを避けるためである。 しかし時には意図して長い文を使う。
一般的にいって、長い文よりも短い文の方が読者の注意を引き、 記憶に残りやすいものであるが、 読者の注意を引きすぎて めりはりがつかなくなり、 かえって何を言いたいのかわからなくなりがちだから、 長めの文をわざと入れておいて、 ここぞ、というところに短い文を入れると効果的である。
Less is more.
自分が書いたものは必ず読み直そう。 できれば黙読と音読をしよう。 特に音読はとてもよい。 もっとよいのが、人に向かって音読することだ。 人に向かって音読しているうちに、 ひとりでにおかしな部分が浮かび上がってくるのだ。 書かれていないことを補足説明したくなったり(そこは説明不足だったわけだ)、 書かれている用語以外を使いたくなったり (そこは言葉の選択が不適切だったのだ)する。 赤ペンをもって、 音読しながらピッ、ピッとマークをつけておくとよいね。
説明文では、一般的な説明の後に必ず具体例を示そう。 具体例が思い付かなかったら、たいていはその説明はうそである (このことを「実例はうそをつかない」という --- たしか 『クヌース先生のドキュメント纂法』 に書いてあったと思う:要確認)。
適切な具体例を見つけるのはとても難しい。 本当に適切な具体例があったら、 一般的な説明はいらなくなることさえある。
1回の表現で相手に理解してもらうのではなく、 何度も何度も言い換えて、確実に理解してもらおう。 「AはBである」「Aは非Bではないのです」「AはCでもあります」 「BなのはAだけではありません」 などなど。
これもまた、 『クヌース先生のドキュメント纂法』 に膨大な例が出ている。
ある文を書くとき、以下のような言い換え練習をしよう。
完全な表現はありえない。 8割でよしとすることにしよう。 このように考えないと、いつまでたっても完成しない。 実際のところ、あなたは生きている。 生きているということは考え方・技法・知識・経験がどんどん変化している ということだ。 しかしながら書かれた文章は変化しない。 ということは、 ここが気に食わない、あそこを修正したい、 という作業を永遠に続けることになってしまうではないか。
もちろん、その時点での最善は尽くそう。 よりよい表現を心がけよう。 でも、ある程度のところで、次に進もう。 99%の完成度に10年かかるより、 80%の完成度に半年の方がよい場合がはるかに多いものだから。
言葉は大事だが、手段の一つに過ぎない。 どんな手段でもいい、理解を助けるものなら何でも動員しよう。 イラストも、図も、プログラムも、例も…
挿話やジョークも手を抜かない。 ジョークは理解のチェックに使おう。 内容が理解できたときに笑えるジョークにしよう。
文章は、どこで書こうか、何で書こうか。
文章を書くには適度な静けさが必要だ。 だが、完全な静寂の中に自分一人で入れば書けるか、 というとそうでもない。 少々ざわついていても、 喫茶店とか、図書館とか、 人が多く集まる場所の方がうまく書ける場合がある。 それはそこに集まる人の「気」が作用するかららしい。 ノートパソコンやメモ帳をうまく使ってアウトドアで書いてみよう。
(私は今現在、この段落を銀行の順番待ちをしながら書いている)
機能がいくら高くても、 しょっちゅう落ちたり、 起動に時間がかかったりする文章作成ツールは使わない方がいい。 シンプルでもいいから、 手になじむ感じがするツールを選ぼう。 文章を書くのは感覚的な要素がとても大きいことを理解しよう。 そこになんらかの障害を生じるようなツールは使わない方がよい。
編集者(校閲者、読者、上司、監修者、依頼人…)の助言は耳をすませてよく聞こう。 けれども文章をどうするか、の判断と責任はすべて著者にあることを忘れない。 文章の統一感は、 あなたという人間のフィルタがかかっているところから生まれる。 他人の文章をそのまま混ぜ込むことは 程度の差はあれ、統一感を阻害することになる。
自分の状況を正しく伝えよう。 どこがうまくいって、何を困っているか。 必要な情報は何で、確認してほしい事実は何か。 そのようなことを編集者に伝えると、 (優秀な編集者なら) 何か別の視点からの助言をくれるものである。 自分の状況を自分の中にとどめておくことは、 そのチャンスを失ってしまうことにもなる。
文章の全責任は著者にある。 けれども編集者への感謝の気持ちを常に忘れないようにしよう。 編集者は、あなたが文章を作ることを支え、励まし、助言を与えてくれるのだから。 そして何より、最初の読者になるのだから。 読者のことを考える著者は、編集者への感謝をも忘れない。
文章がどこから生まれてくるか、あなたはよく知らないはずである。 ふと気がつくと、頭の中に言葉が生まれている。 生まれた言葉を書き留めるのにはあなたの意志が働いているが、 言葉が生まれてくる瞬間は、あなたの制御を離れている。 だから、よく祈ろう。 自分にできないことがあることを自覚しよう。 よりよい表現、よりよい言葉、よりよい文章が与えられるように、 よく祈ろう。
文章はプログラム作りに似ている。 よい文章を生み出すには、 よい睡眠が必要である。 健全な意志を持ち、体調を整えないと、 文章自体が不健康になり、 さらには自分の害毒を文章を通して世界にばらまくことになってしまう。 だから、よく眠ろう。 自分の健康に留意し、 健康な文章が生み出されるようにしよう。
「いつもの本」を書くのではなく「いままでにない何か」が入った本を書こう。 いつもの手馴れた方法で、器用に無難にまとめるのではなく、 どこか「はっ」とするような、どこか「どきっ」とするような、 何かを含めるように心がけよう。
しかし、新しいものをたくさん一度につめこまないこと。 新しいものは「何か一つ」でよいのだ。
「当たり前」を書くことを恐れないこと。 自分がよく目を通して、しっくりくる感じの本になるように心がければ、 それは必ずオリジナリティの高いものになる。 だから、「当たり前」のことも恐れずに書こう。 当たり前のこと、平凡に見えることであっても、 自分の中でよく咀嚼して自分の言葉で書けば、それは意味のあるものになるのだ。
自分の知識を誇るのではなく、読者のことをいつも考えつつ書こう。 読者に話しかけるように書こう。 愛を持って書こう。 独り善がりで書いてはいけない。 読者は必ず著者の独り善がりを見ぬくものだ。
頭の中にあることは早く書き、外に出してしまおう。 書くのにかける時間だけではなく、 書いたものを読み返す時間を大切にしよう。 そしておっくうがらずに、丹念に書きなおす時間も。
愚直に書こう。 手間を惜しまず調べよう。 小さなプログラムをいくつも書いて試そう。 原典にあたろう。 必ず「念のため、もう一度」調べよう。 実験中に起きたことをよく心にとめよう。 自分が出会ったトラブルは読者も出会う可能性が高いから。 自分の勝手な考えや単純化で、読者を混乱させないように注意しよう。
先日父に会ったときの会話。
私 「お父さん。 私は『本を書く』っていうのは『教える』ということだと感じています。 お父さんはずっと教師の仕事をしてますよね。 教えるときに「これが大事」というヒントは何かありますか」
父は、しばらく考えてから、ゆっくりと答える。
父 「一度にたくさん教えない、ってことだな。 『今日はこれだけ覚えて帰れ』というのがいい。 それを『本時の課題』というんだ」
ノートパソコンをひざの上にのせて本の原稿を書いていると、 4歳の息子が隣にやってくる。
息子「とーたん、なにしてるの」
結城「とーたんは、本を書いているんだよ。 本を書くときにはね、 読んでいる人に手紙を書くような気持ちになるのが大切なんだ」
息子「ふうん」
結城「本の中で『これはどうだと思いますか』って書くのは、 読んでいる人に話しかけているんだね。 読んでいる人に話しかける。読んでいる人に問いかける。 そうすると、読んでいる人が自分の頭で考えはじめてくれるんだ」
息子は、私が書くのを横からしばらく見ている。 そのうちに、私にもたれかかってすやすや眠ってしまう。
読者のみなさんからは本当にたくさんのフィードバックをいただいています。 以下にその一部から抜粋させていただきました。心から感謝します。 みなさんからのフィードバックで結城の方がはげまされています。 ありがとうございます。
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あなたの一言が大きなはげみとなりますので、どんなことでもどうぞ。