> 結城浩の日記 > 2004年5月 | 検索 |
プロフィール | 日記一覧 | 日記ダイジェスト | Twitter | RSS |
|
『増補改訂版Java言語で学ぶデザインパターン入門』が、 ソフトバンクパブリッシングのサイトで予約販売受付中です。 予約された方には「動物クリーナー」がもれなくついてくるそうです…。
今日も、本を書いている。
まだ、第1章を書いている。 毎日、第1章の頭からていねいに読んで、ちまちまと直している。 そうこうしているうちに、だいぶ形ができてきたような気がする。 きのう気づいたとおり、とりあえずいらないものをばさばさと削ってみると、骨格が見えてきたようだ。
まだ何箇所か、首尾一貫していないところや、フォーカスがゆれている部分があるけれど、 きちんとした骨格ができてくると、そういう部分はあとから自然と切り捨てることができるから、 あまり気にしない。 大事なのは、この章では何を言いたいのかという大きな流れをつかむことだ。
太い幹が一本きちんと通っていると、枝葉や花も安定した美しさを出してくれる。 でも、幹がないと、いくら枝葉や花を飾ってもうまくいかない。 ややこしいのは、枝葉や花もおろそかにせずに整えていかないと、 何が「本当の幹」かはっきり自分にもわからないってことなんだよねえ…。
今回の「魔法の呪文」は、即効性のなさという点で、 いつもとはまったく異なる姿をしているのかも (って、私以外に意味不明なことを書いてもしかたがないのですが)。
『Java言語で学ぶデザインパターン入門』は、ほんとうに、ほんとうに多数の読者から愛読いただきました。 みなさんに心から感謝します。
2001年の初版刊行以来、継続的に読み続けられ、 2003年には、インプレス社の 『コンピュータの名著・古典100冊』にも選ばれました。感謝します。
このたび、本書の記述を全面的に見直し、全体的に修正を入れて 『増補改訂版Java言語で学ぶデザインパターン入門』とし、 新たに刊行する運びとなりました。 改訂にあたっては読者から送っていただいた無数のフィードバックを参考にさせていただきました。 ありがとうございます。
本書もまた、読者のみなさんのお役に立ちますように!
発売日は2004年6月18日の予定です。
本を書いている。
書き始める前に、祈る。 聖霊さまが知恵を与えてくださるように。 私が言葉を作り出すのではなく、神さまがよい言葉を私の心に与えてくださるように。 それをきちんと書き写すことができるように。
あたかも第1章をきちんとできたような「ふり」をして、 第1章のまとめの節をていねいに書いてみた。 書いているうちに、第1章でいいたいことがくっきりとわかってきたような。 ぐちゃぐちゃに見えたのはぐちゃぐちゃなのではなく、 たくさんのことを言おうとしすぎなのだ、きっと。 もっとばさばさ削ろう。
うん、もう少しがんばると、第1章は形になりそう。 第1章が形になると、他の章も枠組みだけは決まることになるから、 いまより書きやすくなるだろう。
うまずたゆまず、ねばり強く行こう。 効率を求めないようにしよう。 たとえ今やっている部分が後ですべて捨てることになってもかまわないというくらいの気持ちで。 質が上がるなら、もう一度はじめから全部やりなおしてもかまわないというくらいの気持ちで。
いま書いている本が、 生まれて初めて書く本であるかのような気持ちで。
ちょっと時間ができたので、2003年12月の日記ダイジェストを更新しました。
結城「「自分が教えられること」と「自分が知っていること」ではどっちが大きいと思う?」
長男「意味がわかんない。」
結城「あなたが他の人に教えることができる知識と、あなたがそもそも知っている知識ではどっちが多いかな、ということ。」
長男「もちろん「知っていること」のほうが大きい。」
結城「どうして?」
長男「だって、自分が知らなきゃ、他の人に教えられないじゃない。」
結城「そうだね。自分が知らないことを、人に教えることはできないね。じゃあ、自分が知っていることを全部人に教えることはできるだろうか。」
長男「ううん。できない、と思う。自分が知っていても、人に教えられないものもある。」
結城「そうだね。自分が知っていることでも、教えられるとは限らない。」
長男「うん。」
結城「だから、教える前には、じゅうぶんに学んでおく必要がある。人にものを教える人は、他の人よりもずっと勉強しなくちゃならないんだ。」
長男「当たり前じゃん。」
結城「うん。当たり前のことだね。当たり前だけれど、大切なことだ。」
本を書いている。
第1章はまだぐちゃぐちゃなのだが、 描くべき図を描いて、じっと眺めてみる。 さて、どの方向に進むべきか。
うーん。もつれた毛糸をほぐそうとして、 かえってぐちゃぐちゃにしているダイナのような気分。 アリスはどこ?
最近のお勧め本、2冊。
『すごいぞ折り紙—折り紙の発想で幾何を楽しむ』は、とっても数学的な折り紙の本。 アマゾンの表紙画像を見ていただければわかると思いますが、 とんでもなく楽しそう。 いくつかの紙片(ユニット)を折り、それらを組み合わせて正12面体を作ったりする。 この本を長男に渡したところ、夜中に「ほらできたよ!」と正12面体を見せに来たのが夜10時。 「きみ、まだ寝てなかったの?」とあきれた次第。
『シンデレラ—幾何学のためのグラフィックス』は、幾何学を学ぶためのソフトウェア。 グラフィクス画面上に点を打ったり円を描いたりするのはもちろんのこと、 「この点はこの円とこの直線の交点」というような制約をつけたまま、 図形を動かすことができる。サンプルも多数あり、それを見ているだけでも楽しい。 あっ、アマゾン在庫切れだって。ふみぃ。
夜中、何となく目が覚めちゃった。 昨日の日記の後半部分は、 読み返してみて、 今ひとつ書きたいこととずれてしまっていたので、 いったん削除しました。すみません。
ふう。
今日も一日の仕事が終わって、改めてエディタを起動し、 キーボードのホームポジションに両手をそっと置いて、 さあ、何を書こうかな、と考える。
やみくもに忙しい中に充実感を感じることもあるし、 のんびりするはずが、妙にむなしく感じたりするときもある。 それはようするにワーカホリックか? まあいいや。
仕事はもちろん仕事なのだが、私の中ではあまり仕事と趣味の区別が判然としていない。 原稿を書いたり、本を書いたりしているのは、もちろん生活のためではあるが、 それ以前に深い楽しみがあるからだ、と思っている。 自分がほんとうに楽しいと感じることが何かを知っているのは、幸せに生きるコツかもしれない。 他の誰が何と言おうとも、これが楽しい。 もっと効率の良い、もっと割りの良い仕事があろうとも、この仕事が楽しい。 そういうものを見出すことができれば、毎日は楽しい。まあ、それはそうだ。
何かを成し遂げるために、努力し、自分のやりかたを守る。 しかし自分のやり方に固執するのではなく、柔軟に人の言葉に耳を傾ける。 そういうのって良いなあ、と思う。 人の意見に耳を傾ける。ていねいに聞く。本気で感謝しつつ、参考にする。 でも、それを取り入れるかどうかは、自分のハートでしっかり判断する。 だれかの意見を鵜呑みにするのも、だれかの意見を毛嫌いするのも、同じ軸上にある。 方向が逆を向いているだけだ。 もっと広い空間に遊ぶために、心を開く。オープンな姿勢を保つ。 でもやみくもに他の人に引きずられるのではない。 そういうスタンスでいたいなあ、と思う。
今日も、本を書いている。 書くべき題材は十分そろっているけれど、 ぐちゃぐちゃになっている第1章をなんとか形にしようとして、 こね回している状態。 土日にほったらかしていたから、読み返すとどこが分かりにくいかよく分かる。 でもどうしたら分かりやすくなるかはまだ分からない。 思い切ってばさばさ削ったり、節をあちこち移動してみたりする。
プログラム書きと同じで、文章書きは機械化できないと思うな。 あるいは、機械化できる部分というのは実はたいへんな部分じゃないんだと思う。 最もたいへんのは、なぜそうなるか前もって言葉で表現できない部分なのだ。 できた後から、できたものを見て、あーだこーだいうのはできるし、簡単。 そんなに頭を使わない。 でも、何もないところから、よい形のものを何か作り出すというのは、 とても頭を使う。とても、とても、頭を使う。時間もかかる。 そして、できたものがよい形であればあるほど、 苦労なく作れたかのように見える。 なぜなら、まるで、それ以外の形がありえないように思えるからだ。
そのような形が「よい形」のしるしであり、よい仕事のしるしかもしれない。
ソーシャルネットワーキングサービスのmixiとgreeを退会しました。 特にトラブルや問題があったわけではありません。 まあ「もういいかな」という感じで。
サービスとしてはgreeのほうが面白い点が多かったけれど、 サイトデザインとしてはmixiのほうが楽しかったですかね。
いろいろお相手してくださった方々、ありがとうございます。
拙著『結城浩のWiki入門』に対して、 yomoyomoさんがたいへん好意的な書評を書いてくださいました。 ありがとうございます。
好意的な書評でも、辛口の書評でも、私はありがたいと思っている。 なぜなら、私の本をそれだけていねいに読んでもらえたということだから。 もちろん好意的な書評のほうがうれしいに決まっている。でも、それ以前に、 読んでいただけたことと、書評を書くだけの時間をとってもらえたことに対して感謝したいと思っている。
yomoyomoさんの書評に関しては、特に私から補足することはないと思います。 たださんの書評のときと同様に、的を射た書評に感謝し、 あの本の不足部分に関しては、今後の執筆の際に参考にさせていただこうと思っています。
このyomoyomoさんの書評は、単なる書評ではなく、 Wikiによるサイト構築の重要なポイントについても触れたテキストになっていますね。
あ、そうだ。 「Wikiページのタイトルをクリックすると、そのページを含むページが一覧できる」 機能についてはたぶん拙著では特に触れていないはずです。yomoyomoさんの見落としではありません。 触れてもよかったかもしれませんね。
yomoyomoさん、ありがとうございました。
以下、思いつくままに。
映画「パッション」を通して、何も感じない人は少ないと思います。 あの十字架の残酷さ、そして十字架につけろと主張している人々の残酷さに対して。 ひどいなあ、と思う。見ていられない、と思う。 もしもそこから一歩進んで「でも、実は自分も、あれと同じことを毎日やっているのかも」と思えるかどうか。 誰かのことを「あいつなんかいなけりゃいいのに」と思うなら、それは自分がカヤパになっている。 「いや、そんなことは私はしてない」と言うなら、 それは自分がペテロになっている。 「ほんものの救い主なら、おれを助けてみろ」と言うなら、 イエスと共に十字架にかかった罪人の片割れと同じセリフを言ったことになる。
本屋さんに行くと聖書を買うことができる。 行かなくても、アマゾンで買える。 少し探せば、自分の家から通える教会も見つかる(ことが多い)。 教会に行かなくても、夜ねむるまえに「イエスさま、ごめんなさい。イエスさま、ありがとうございます」と祈ることはできる。
チャンスはいつでも、あなたの前にある。
どんなに忙しい人でも、 いますぐに「イエスさま、あなたを信じます。私の罪を赦してください」と祈ることができる。 時間は10秒もかからない。
自分の身勝手さを心から悔い改め、イエス・キリストを信じるなら、 あなたはたった今、クリスチャンになる一歩を踏み出すことができる。 永遠の命と、天国の約束と、神さまの子になる権利を得ることができる。
というような文章を書きながら、私は自分の身を省みる。
ネットでは偉そうなことを書いているけれど、実生活では「とほほ」なことが多々ある。 失敗も山ほどあるし、悔い改めるべきことは日々たくさんある。 でも、私はあまり後悔はしない。それから過去に引きずられないようにしている。 「こんな自分だから、神さまは私を助けることはできない」とは思わない。 神さまは私の弱いところに働いてくださる方だと信じている。 失敗したり、悔い改めるべきことがあったら、 何度でも何度でも、根気よく神さまに「ごめんなさい」しようと思っている。 「またどうせ同じ失敗をするに決まっているぜ…」というサタンのささやきが聞こえたら、 「確かに私は弱い。また失敗するかもしれない。でも、今ではないぞ! イエスさまのお名前で命じる、サタンよ出て行け!」と宣言する。
私は、イエスさまこそ本物の本物であり、聖書にこそ「人生の鍵」があると思っています。 本物の幸福の鍵、いのちにいたる鍵、生き生きと生きる鍵、喜びに満ちる鍵が。 自分の失敗を認めることは大事だけれど、 自分の失敗に引きずられるのではなく、自分を見つめるのではなく、 イエスさまを見上げて生きよう。
信仰は強制ではない。 その一歩を踏み出すかどうかは、あなたの意志にかかっている。 言い換えれば、あなたの自由だ。 イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、 自分の人生を神さまに導いていただきたい…そのように願うか/願わないかは、 あなたの心しだい、あなたの意志しだいだ。 「結婚してください」という申し出に「はい」と答えることもできるし、 「いいえ」と答えることもできる。
それはあなたの自由だ。
あなたの意志があなたの言葉にあらわれ、あなたの選択となる。 そしてあなたの未来を決める。
急に冷えたせいで家内が微熱(風邪?)。 そのほかにも親戚筋での病気関係の「ややこしや」がいろいろ。 大事にはいたらないと思うけれど、神さまの癒しと守りを祈ります。
原稿の校正は再読が終わり、朱を入れた原稿を封筒に入れる。 自分の書いた文章を微調整するのは楽しいお仕事。
クリスチャンのことわざ:「主に交われば、聖くなる」(「朱に交われば、赤くなる」のもじり、って説明しなくてもわかるか…)
クリスチャンの夏の食べ物:「主われをアイス」(「♪主われを愛す…」という歌があるのです、って説明しなくてもいいよ…)
(読者から、s/われ主を/主われを/gというご指摘をいただきました。感謝します (^_^;
)
YukiWikiに 「映画パッション」のページができておりました。
昨晩、編集部から校正のお仕事が届いたので読む。 最初は「今日は半分くらい読むことにしよう」と思ったのだけれど、結局全部読んでしまった。 何点か修正が必要そうな箇所を見つけたので、後で再読することにする。
今朝は台風一過の良い天気。 私がマクドナルドに行くタイミングで、 家内も出かけるというので、 抜けるような青空の下で一緒に歩く。 奥さんと並んで歩くのは楽しいね。
本を書いている。 まだ第1章のあたりをうろうろ。 最初は3つのエピソードを入れようと思っていたけれど、 ていねいに書いているうちにそれは無理だということがわかって2つに。 さらには1つのエピソードだけで十分豊かな広がりを持つことがわかったので、1つに絞ることにする。 そのほうが1章の分量としてもちょうどよさげ。
まだ、魔法の呪文は見つかっていない。 でも、あせってはいない。 あ。 もしかすると、今回見つかる魔法の呪文は、 魔法の呪文のような姿はまったくしていないのかも。 そこが魔法だ(って何言ってるんですかわたしは)。
本を書いている。
ちょっと広がりすぎか。具体的に書き込んで絞り込むことが必要。 各章の構成を詰めながら、章扉について考える。
まだ、魔法の呪文は見つからない。 見つかっているのかもしれないが、 となえかたが分からない。
『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』が、 またまた増刷になるとのことです。 応援してくださるみなさんに感謝し、主の御名をほめたたえます。
暗号本は、書くのがとっても大変だったし時間もかかったけれど、 たくさんの読者に読んでいただけているようで、本当に感謝です。 暗号本は、結城が書いたはじめての「プログラミングと直接関係のない本」なので、 このように増刷になるのはとてもうれしいことです。
今日はとても疲れたので、村上春樹を読みながらビールを少し飲んで、ほろ酔い気分になりました。 で、いまThinkPadを開いているわけですが、こういう気分のときにしか書けない文章というものもあって、 それをいまから書こうというわけです。
といっても、何か特別なことが始まるわけではなく、 私の手が動くまま、指が導くままに文章はつむがれていくわけですけれども。
さて、ごたくはさておき。 私はいつも、読者のみなさんのことを「読者のみなさん」と表現します。 日記であれ、私の本であれ、連載記事であれ、読者のみなさん、と表現しています。 私は読者のみなさんにとても感謝しています。 これはおべっかや、機械的ないいまわしというわけではなく、本気で感謝しているのです。
自分のWebサイトを運営している方ならよくわかると思いますが、 普通のWebサイトでは(よっぽどアクセス数の多いサイトは除いて)、 「読者からの反応」というのはほとんどないものなのです。 ましてや、好意に満ちた、あるいは建設的な反応というのはとても少ない。 少ない、はずなのですが、 私の「読者」のみなさんは、ほんとうにまめに結城あてに反応を書いてくださっている。 これにはとても助けられています。 あらためて感謝します。
結城のWebサイトの誤字脱字、リンク切れ、 事実誤認に、ブラウザ依存の不具合…ともかくいろんな種類のコメントやフィードバックを いただいています。ありがとうございます。 ときどき、結城のサイトのことを「とても細やかな心遣いに満ちた読みやすい場所」と 評してくださる方がいるのですが、それも道理で、なにしろ多くの方のフィードバックの上に 成り立っているサイトなのですから。 みなさんの一つ一つのメッセージに感謝します。
結城はネットを通じてみなさんとやりとりをすることをとても楽しみにしているのですが、 私自身の時間は限られているわけで、メールのお返事が滞ったり、掲示板でのフォローが 足りなかったりすることも多々あります。それは本当に申し訳なく思っております。 でも、これはご理解いただきたいのですが、結城がすべてのメールにまじめに返事を書いていたら、 一日がすべてそれで埋まってしまうのです。ごめんなさい。
あるとき、ある場所でのフォローが遅れたことで、ある読者が不愉快に感じられたことがあります。 また別のとき、別の場所でも、結城の対応のまずさによって不愉快な思いを味わった方がいらっしゃいます。 結城が知りえた範囲でも、そういった事項は何件かあるので、実は結城がしらない範囲でも、 たくさんの人に不愉快な思いをさせたり、傷つけたりすることもあるかと思います。 それについては、申し訳ないと思っております。ごめんなさい。
あ、多くの方によって「祈られている」ことは特に感謝すべきことです。 多くの方が、このサイトのために、また結城のさまざまな活動に関して、 心を込めて、貴重な時間を使って、祈ってくださっている。 そのことを心から感謝します。ありがとうございます。
何よりもうれしいことは、結城のサイトを訪れたことをきっかけとして、 聖書を読み、教会に通い、イエス・キリストさまを信じた方が何人かいらっしゃるということです。 これは本当にうれしい! たった一人でも、そういう方がいらっしゃったなら、 私がこのサイトを立ち上げた意味があると思っています。 だって「いのち」を得るわけですものね。本当の、永遠に続く、本物の「いのち」を。
人間を単なる集合体だと思うと、つい、統計や割合や効率などを考えてしまうんですけれど、 人間はそういう集合体ではなく、一人一人がスペシャルな意味を持ち、 交換不可能な——つまり、かけがえのない——存在だと思います。 ですから、誰か、ある「一人」が命を得ること、救われること、悔い改めにいたること、 には無限に深い意義があるのです。
たった一人。たとえば日本人約一億人のうちのたった一人は、割合にしたらたいしたことはない。 でも、その当人にとってみれば、自分がいのちを得るか、むなしく滅びるかの違いは大きい。
これは、想像力の問題です。
「誰か他の人々のこと」だと思うと、統計や割合や効率が出てくる。 でも、「うっ、これはホカナラヌワタシのことだ」と思うと、統計はふっとんでしまい、 ものすごく切実で・生々しくて・重い事実が目の前に現れるのだ。
「信仰の告白」っていうのはそういう意味合いを持っている。 告白。 恋愛や結婚ととてもよく似ている。
ふつうのことなら、周りの様子を見て、友達や同僚の反応をみながら対処すれば まあ問題はない。
でも、恋愛や、結婚や、信仰の問題はそうはいかない。 恋愛や、結婚や、信仰は、他の人の様子をみて決まるものではない。 まわりのみんながOKといったから、自分がOKできるわけではない。 両親・友達・親戚がダメといったから、自分もやめるとはいかない。
最後の、最後は、 「そのことについて、あなたはどう言いますか。他の人はどうでもよい。あなたは、なんと言いますか」 という厳しい問いに答えなければならない。 あなたが。たったひとりで。
もちろん他の人のアドバイスはあるだろう。 本を読んだり、ネットで情報収集はするだろう。 でも、最後の告白はいつも一人でやらなければならない。
「あなたは、何と言いますか?」 という問いに答えるのは、誰でもない、あなた自身だ。
「わたしは、あなたが好きです。あなたと結婚したいです!」という告白。
「神さま。わたしは、イエスさまを救い主として信じます。このわたしを、どうか助けてください!」という告白。
とても似ている。
あなたは選べる。
少なくとも、今は。
私は洋服についてはあまり…というかぜんぜん気にかけないほうなので、 奥さんはいささか不満ぎみ。もう少しちゃんとした格好をしてほしいといつも思っている。
「今日こそ、あなたの洋服を買いますっ」
奥さんが宣言して、二人で洋服を買いに行きました。 素材の吟味をしたり(吟味をするのは店員さんと家内なのですが)、 色の吟味をしたり(これも、店員さんと家内の間で)、 試着をしたり(これは私がやります)…。 そしてやっとワンセット買うことができました。
買い物については、以上。
最近『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』の読者からの質問やご意見メールをたくさんいただく。 ここ数日急激に増えているのですが、何かあったんでしょうかねえ…。 あ、もしかして先日、この日記で紹介したから? 違うか。 個別のお返事はなかなかできないので、ごめんなさい。
時間の合間に本棚を整理する。 要らない本を捨てたり、いま書いている本の参考書を並べ替えてみたり、 雑誌を切り抜いて整理したり。 本棚の本に手を入れて整理すると、何となく、自分の頭も整理されたような気分がする。
はてなアンテナも、編集作業がもっと手軽にできればよいのにな。 たとえば、ローカルにCSVでファイルを作って、それをアップロードするみたいに。
そういえば、今年2004年の10月で、 結城がWebページを公開してからちょうど丸10年になりますね。 何か楽しい企画をやりましょうか(といってもアイディアはないのですが)。
本を書いている。
先日見つけたと思った魔法の呪文は偽物だということがわかったので、全部捨て。 また地道にあちこちをつつきまわっている段階。 編集長からは「どんどんやってください」というはげましをいただいているので、 それに元気をもらって「どんどんやる」ことにする。 Excelの表に章ごとのアイディアをまとめたり、エピグラフを考えたり、 まだ書いてもいないのに「本書ではこのようなことをお話してきました」などという文章を書いて考え込んでみたり。 抽象度のまったく違う作業をやりながら、全体を組み上げている段階。
私ってほんとうに本を書くことに関しては要領が悪い。 というか、わざと手間ひまをかけるように心がけている。 関係がありそうな無駄なことを山ほどやって、外堀を埋めたり。 たくさんの比喩を作り出して、その大半を捨てたり。 わざと無駄なことをやって楽しんでいる。 そのほうが良いものができると信じているからだ。 こんな私に付き合う編集長さんは大変ですね。 ごめんなさい。
毎回、ルーチンワークにならないようにも注意している。 今回も、何とかして、新しい魔法の呪文を発見するのだ。 この一冊限りの魔法の呪文を。
聖霊さま、どうぞよろしくお願いいたします。
ふとリファラで発見した airbirdsというクリスチャンのサイト。みことば絵日記がよいですね。
今日は良い天気だったので、家族4人で電車に乗ってお出かけしました。 ついつい遠くまで行ってしまい、帰ってきたときには夜になっていました。
乗り物の待ち時間などで考える題材として、 いま書いている本の目次をA4の紙一枚にプリントしたものを ポケットに入れていきました。
いろんな乗り物に乗れて、子供たちは大喜びでした。
(子供の絵日記のような文章…)
『世界の中心で、愛をさけぶ』という本が売れているようですが、 みなさんは『十字架の上で、愛をさけぶ』という本を知っていますか。 そう『聖書』のことですね。
映画「パッション」| 情報交換掲示板 というものがあるんですね。 みなさんの感想などがたくさん書かれています。
ソフトバンクパブリッシングのJava技術情報誌「JAVA Developer」がWebマガジン化されました。 結城の連載記事「キーワードで学ぶオブジェクト指向プログラミング入門」もWebページとして読めます。 今月号は、画像の明度を変化させる小さなプログラムをサンプルに、 「コラボレーション」というキーワードを紹介しています。 みなさん、ぜひどうぞ。
昨日、章の構成をちょっぴり「つかんだ」気持ちになったのでハッピー。 今日は、図を少し描く。 描いてみて「そうだそうだ、図を描くのって大変だったんだっけ」といまさらのように思い出す。 一枚の図を描くのに1、2時間はかかる上、一枚完成するまでに何枚も没になるのであった。 ふみぃ。
デザパタ本や マルチスレッド本、それに 暗号本を書くときも、図は本当に大変だった。 きっと「言いたいこと」をしっかりとつかんでないと良い図にならないからなのだろう。 文章やプログラムとよく似ている。
図を描くときにはVisioを使っている(数年前までは「お絵かきソフト」で図を描いていた(!))。 雑誌の原稿の図も、 書籍の図も現在はすべてこれで描いているが、 きちんと期待に応えてくれる。 私にとっては、ブラウザ、秀丸エディタ、コンパイラに並んで使用頻度が高いツールである。
以下はVisioや図に関する過去の記事。
p(^_^)q
早めに寝たら、ぐっすり眠って元気になりました。
感謝です。(^_^)
先日2003年10月と11月の日記ダイジェストを作ったが、 その頃発売された 『暗号技術入門 —— 秘密の国のアリス』 に関連した日記がいろいろとあった。 そういえば、と思って「ギコ猫」とか 「暗号スレ」とか 「暗号サイコロ」などを懐かしく読み返していた。
少し検索してみたら、 最近ご購入くださった方のWebページが見つかったので、 感謝しつつリンク。
今日は暑かったせいか、早起きしたせいか、とってもくたびれた。
あまりにもくたびれたので、 2003年11月の日記を「日記ダイジェスト」に移動。
今日も淡々と本を書きます。
今日は「全体をばたばた書くモード」ではなく「はじめからていねいに少しずつ進むモード」です。 効率を無視し、ふんだんに時間をかけて、一見当たり前に思えることをていねいに考えていきます。 ひとあし、ひとあし、考えつつ書きます。 きちんと、完成原稿に近く、という気持ちで書きます。
そのようにじっくり進んでいくと、 途中で「なるほど、そういうことであったか」という発見があることが経験上わかっています。 実際、今日もそういう発見が3個ほど。
そういう発見の驚きと面白さ、わくわく感が消え去る前に、その部分の文章を書いていきます。 ことばに息を吹き込みます。
ちょうど、神さまが単なる土くれに息を吹き込むのと同じように。
比較にならないほどささやかな規模だけれど、創造の喜びがここにある。
2003年10月の日記を「日記ダイジェスト」に移動。 こういう作業はすべて手動なのだが、特に苦痛ではない。 移動するときにリンク切れを修正したり、 文章を少々手直ししたりするのが楽しいからだ。
ひと月分の日記を読み返すわけだけれど、 今回は以下の文章を読んで、思わず涙ぐんでしまった。 昨年の10月の自分自身にはげまされている。
C MAGAZINEの連載原稿も昨晩無事出すことができたので、今日は本を書きます。
[WB] そういえば、 『結城浩のWiki入門』の編集者さんから「bk1でまたランキングに入っていましたよ」 というメールをいただいたのでチェック。 確かに、bk1コンピュータ・インターネット(2004年4月26日 〜 2004年5月2日)で10位に入っておりました。 感謝します。
この編集者さんからは
「吉祥寺ブックスルーエの 4月 コンピュータ書ランキングで22位でしたよ!」
というメールもいただき、恐縮する。
あちこちの書店のランキングをチェックしておられるのですね…。(^_^;
ありがたいことです。
そういえば、 YukiWiki自体についても少しアイディアがあるのだが、 いまそれをやりはじめると、本が進まなくなるので我慢、我慢。
いつも楽しく/深い日記が書かれている 「はちことぼぼるの日記」で、ぼぼるパパが 次のような覚書を書いていらした。
Justice is getting what I deserve.
Grace is not getting what I deserve.
Mercy is getting what I don't deserve.
なるほど、と読んでしばらく考えていました。 直訳だと次のようになるのでしょうか。
正義とは、私が受けるに値するものを受けることである。
恵みとは、私が受けるに値するものを受けることではない。
慈悲とは、私が受けるに値しないものを受けることである。
少し意訳。
正義とは、もらう資格があるものをもらうこと。
恵みとは、もらう資格があるものをもらうことではない。
あわれみとは、もらう資格などないものをもらうこと。
訳(および理解)はこれでよいのでしょうか…。
と疑問を提示したところ、 はちこさんからお返事をいただきました。 以下、引用します。
直訳すると「恵みとは、私が受けるに値するものを受けないこと」でしょうか。「受けるに値するもの」とは、良いものばかりとは限らないですよね。たとえば、法を侵せば罰せられるのは当然のこと。その際、「罰」は私にとって「受けるに値するもの」です。でも、その「受けるに値するもの」を受けないで済むこと、それが恵みだというのがこの文章の意味だと思います。
とのこと。なるほど、なるほど。 deserveって自然な日本語に翻訳するのが難しいですね。 説明的な意訳(?)は次のようになるでしょうか。
正義とは、受けるべき報酬を受けとること。
恵みとは、受けてしかるべき報いを受けないですむこと。
あわれみとは、受けるに値しない報酬までを受けとること。
さらにはちこさんからコメントをいただきましたので、以下にご紹介します(いいですよね?はちこさん)。
deserve って、確かになかなかすっきりした日本語に訳しにくいですよね。 さんざん好き勝手なことをして、最後に落ちぶれてみじめになったとき「I deserve it」と言うこともあるし、 一生懸命努力して努力に見合った報いを得たときに「I deserve it」ということもあるし。
...
「正義とは、受けるべき報酬を受けとること。」とすると、ちょっと原意が損なわれるかなと思いました。 受けるべき報酬を受け取るだけでなく、受けるべき罰/報いを受けることもまた正義です。
義なる神様は、ご自身の正義を妥協される方ではありませんでした。だからイエス様を私たちの身代わりにして、本来なら私たちが受けるべき(what we deserve) 神の御怒りを彼に受けさせたのですよね。まさにAmazing grace です。しかも、受けるべき御怒りを受けずに済むようになっただけでなく、神さまは私たちを神の子供の立場にまで引き上げ、イエス様と御国を共に受け継ぐ共同相続人にしてくださいました。 英語ではこれをmercy というようですが、日本語の「あわれみ」だとちょっとピンとこないですよね。むしろ、日本語の感覚だと「あわれみ」と「恵み」を入れ替えた方がしっくりくるような感じ。翻訳は難しいですね。
そうですね。 報酬とすると、よいことばかりのニュアンスになってしまいますね。 難しい…。
...
ぼぼるパパご本人の補足説明もあります。
おかあさん、ありがとう。
気がつくと5日間も日記を書いていなかった。 原稿書きで多忙の毎日でした(です)。
アマゾンのアフィリエイトから紹介料がギフト券として届いたので、一部をユニセフに寄付しました。 みなさまありがとうございます。 ところで、ユニセフのインターネット募金はとても手軽にできるのでよいですよ。
映画「パッション」を家内と見てきました。
みなさん、これ、絶対見てください。
これは、劇場で観て、その世界の中に入り、 自分自身が「その場に私がいたら…」ということを体験する極めて重要な機会です。
特に、リーダー的な役割を果たす人、人と関わる仕事をする人、弱さを感じている人、 迷っている人、本物を求めている人、自分の生き方(ほんとうの生き方)を探り求めている人は、 クリスチャンであるかどうかに関わらず、観ることを強くお勧めします。
まずは、お勧めまで。
○ ○ ○
さて、うまくまとまっていませんが、 映画を観た感想を書いてみました。
また『ヤベツの祈り』を翻訳なさった、 はちこさんの日記にも映画「パッション」に関する記事があります。 以下のリンクの下のほうにパッションに関する記事がまとめてあります。
今朝書いた日記のスクリプトを公開してほしいな、 という依頼をいただいたのですが、 結城のサイトにたくさんあるCGIとの関連をもったコードがぐちゃぐちゃ含まれているので、 ちょっと公開できません。ごめんなさい。
spamに悩んでいる、というのなら、 POPFileをお使いになることを強くお勧めいたします。
先日、 良いspamフィルタはあるかしらんという教えてクン日記を書きました。 みなさん、いろんな情報をありがとうございました。
結局のところ、 サーバサイド(メール着信時)には自作のスクリプトで明らかなspamを切捨て、 クライアントサイド(メール取得時)にはPOPFileを使って分類、 という二段構えにすることにしました。
サーバサイドでは、以下のロジックでメール軽量化をはかります。
怪しいメールでもなんでも、削除するのはボディだけで、ヘッダは削除しないようにしました。
そのほか、ここには書けない工夫をいろいろやって、 メールスプールに蓄積されるデータサイズはほぼ10分の1になった。 これでちょっと一安心。
本屋さんに行く機会があったので、UNIX MAGAZINE 2004年5月号を買ってきた。 山口英さんのUNIX Communication Notesという連載記事(p.54-62)でYukiWikiが紹介されているという 情報をyomoyomoさんから教えていただいたからだ。
JPCERT/CCの山口さんにYukiWikiの記事を 書いていただくとは恐れ多いことである。 (しかも、大変好意的な記事で、インストールの手順までていねいに書いてくださっている!) YukiWikiを紹介したのは、 (1) Perlで書かれていて馴染みやすかったこと、 (2) 現在も機能拡張とコードの保守が続けられていること、 が理由だそうだ。 「結城さんの継続的な努力に感謝したい。」 という言葉までいただいた。 恐縮しつつ、感謝、感謝。
あなたのご意見・感想をお送りください。 あなたの一言が大きなはげみとなりますので、どんなことでもどうぞ。