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読者の声 | 先月 | 日記ダイジェスト |
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[NC]原稿を出す。
[PI]原稿を書く。
○○さん、お手紙ありがとうございます。 あなたの手紙を読みながら、私は涙を流してしまいました。 あなたの問いに対して、どれだけ適切にお答えできるかどうか、 私にはわかりませんが、心をこめてお返事を書きたいと思います。 主が適切な言葉を与えてくださるように祈ります。
神さまを信じることを難しく感じているのは、あなただけではありません。 理由の一つは、神さまの存在が「論理的に証明」するたぐいのものではないからです(少なくとも私はそう考えています)。 神さまは「父」だと聖書は語ります。 神さまの存在を証明できないのは、 自分の父親が本当の生物学上の父親であることを証明できないのと少し似ています。 推論のどこかで、誰かを信用しなければならないのです。 家族か、親戚か、医者か、戸籍か、遺伝子学者か、その他何でもいいですが、 何かを「信用」しなければなりません。 神さまの存在を信じることも、それに近い部分があります。 聖書か、他のクリスチャンか、歴史書か、何でもいいですが、 自分の理性と感性をフルに働かせて吟味した上で、何かを信用しなければなりません。 神さまの存在する純粋論理的な証拠を私はここに示すことはできません。
論理的な証拠は示せませんが、 証人は示すことができます。例えば、この私です。 それについてはまた後でお話しします。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです (ヨハネの手紙第一 4章8節)
この聖書箇所のもう少し先を読んでみましょう。 愛がどこにあるかが、聖書に書かれていますから。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、 いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに 示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。 (ヨハネの手紙第一 4章9節、10節)
愛がないのはあなただけではありません。 人には愛はないのです。そのために、まさにそのために、 イエスさまが私たちのところに遣わされたのです。 私には愛がない、あなたにも愛がない。
つまり、人間は、根本的に「人なんかどうでもいい」と思っているのです。 「自分がよければいい。 神さまなんて知ったこっちゃない。 自分がよければいい。 あいつなんか死んでしまえばいい。 私さえ幸せならばそれでいい」と思うのが人間なのです。 そしてそれこそが「罪」なのです。
イエスさまは愛がない私たちのために愛を示しにやってきた。 「こうしなさい」という姿をお示しになった。 こうしなさい? キリストは十字架にかかった。 罪をおかしていないのに、十字架にかかって死んだ。 本来は私が、そしてあなたが十字架にかからなければならないところを、 身代わりになって死にました。 もちろん、イエスが言っているのは、本当に物理的に十字架にかかって死ね、 と言っているのではない。それはすでにイエスさまがなさったこと。 あなたには、あなたの十字架があるのです。
もしかしたら、あなたの十字架は、 誰かに「ごめんなさい」と一言言うことかもしれない。 いままで冷たくしていた誰かにやさしい態度を示すことかもしれない。 「あのことを行ったのは私だ」と告白することかもしれない。 あなたの十字架はあなた個人に神さまから示されることでしょう。
私たちには愛がない。 けれどもまさにそのためにイエスさまは十字架にかかった。 あなたは「私には愛がない」とおっしゃる。 実はそれが神さまへの最も近道であることにお気づきですか。 自分が重病にかかっていることを知らない人が医者に行くでしょうか。 私たちは重病、それも確実に死にいたる病にかかっています。 そのために、あなたは神さまを切に求めているのではありませんか。
もう一度聖書を読んでみましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
と聖書に書いてあります。あなたが神を愛する前に、 神さまが私たちを(あなたを、他の誰でもない○○さん個人を)、 愛してくださったのです。
あなたはこう問うでしょう。 「神さまは、本当にいるのか」 私は声を大にして、お答えします。 「はい、神さまは本当にいらっしゃいます」
そのとき、あなたはこう問うでしょう。 「どうしてそれがわかりますか。」 私は、こうお答えします。 「私は神さまに命を救っていただいたからです」 私は20代に大きなトラブルを通過し、この世での命を失うところでした。 神さまはそのような状況から奇跡的に私を救ってくださいました。 その後、私は不思議な経緯により、教会に通うようになり、 あるとき、知人のクリスチャンの一言と祈りによって、 神さまが語っていることを素直に受け入れることができました。 そして私は洗礼を受けました。 今にして思えば、洗礼を受けた時点でも神さまのこと (というより神さまの大きさ)をさっぱり理解していなかったと思います。 私は至らないものだった。 けれども神さまが 「それでもよい。私はあなたを愛している」と招いてくださった。 それで洗礼を受けることができたのです。
私がしなければいけなかったのは、 最初の一歩を踏み出すところだけでした。 神さまを信じるための一歩は神さまへの祈りでした。
…今にして思えば、ごちゃごちゃしながら、自分も整わないまま、 必死の思いで洗礼へなだれこんでいったのかもしれません。 神さまのことをさらに深く知り、イエスさまのことを本当に知り始めたのは、 洗礼を受けたあとですね。
神さまが確かにいらっしゃること、聖書に書かれている通りに、 神さまは存在し、イエスさまの十字架があり、救いがあるということ。 私はそのことの証人となります。 純粋論理的な証明ができなくても、 私は私の命を助けてくださった方が神さまであることの証人となります。
あなたはこう問いました。 「イエスさまをどうすれば信じることができますか」
努力して信じることはできません。 自分の力で信じることもできません。 試験を受けて信じる資格を得るわけでもありません。 じゃあ、どうすればよいか。
信じることができるように、神さまに祈り求めてください。
さらに聖書を読んでみましょう。
だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、 神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。 (ヨハネの手紙第一 4章15節)
神さまに、自分の罪を告白し、 イエスこそ自分の罪のために十字架にかかった救い主であることを告白し、 神さまを信じる信仰を与えてくださるようにお祈りしてください。 そうすれば、神さまは必ずあなたの祈りに応えてくださいます。 後で、ご一緒に言葉をあわせてお祈りしましょう。
あなたが神さまに出会うなら、 神さまと、日々の祈りを通じて深い交わりを体験するなら、 あなたは本当の自分の親に出会うことになります。 神さまはあなたの本当の父だからです。 自分の行動を自分の目で見るという観点から離れ、 神さまがどう判断するだろうか、という観点が得られることになります。
神さまに出会い、神さまの愛に包まれて生きるとき、 あなたは無駄な戦い、無駄な取り繕い、無駄な虚栄心から自由になれます。 そこで消費されていたエネルギーを他に向けることができます。 あなたは本当の自分自身を見つけ、 神さまから受けた愛を他の人に少しづつお返ししていくことが できるようになります。
不思議なことです。 オレがワタシがと我を張って生きているときには本当の自分を見失って疲れるが、 自分の弱さや罪を神さまに告白し、神さまに委ねるとき、 私たちは本当の自分を見出すのです。
死は恐いものです。誰しも死を恐れます。 しかしまた、例外なく、死はあなたのところにやってきます。 例えばいまから100年後、 あなたは確実に死んでいるでしょう。 私も確実に死んでいます。
しかし、キリストによって救われた人は、永遠のいのちに入ります。 この世での体は死んでしまいますが、 キリストの救いによって、新しいいのちを得るのです。
イエスの生涯は十字架の死で終ったのではありませんでした。 イエスは三日の後に復活しました。 イエスの救いをうける人も同じです。 死に打ち勝ったイエスさまの力によって、私たちも新しいいのちを得るのです。
私たちがこの世での命を失うとき…それはきっと孤独なときかもしれません。 自分がこの世で築いた家庭、財産、地位、知識、経験、…をいったんすべて 手から離さなければならないからです。 つまり、自分の死に際し、この世のものは何一つ、 自分を助けてはくれないのです。 その孤独の一瞬。 強い御手であなたを死から命へ引き上げてくださるのは、誰ですか。 そのようなことができるのは、神さまだけなのです。
ずいぶん長くなってしまいました。 それでは、お祈りいたします。 あなたもぜひ、私と一緒にお祈りください。
今日の礼拝もとってもすばらしかった。
神さまに全部お話して、神さまから全部ゆるしてもらって、
神さまからたっぷり愛と恵みと励ましをいただいて帰ってきました。
帰ってきて、お昼寝。(^_^)
[CR/g2]の返事を返す。今回は早めに返せた。 よかったよかった。感謝感謝。
先日の日記に関連して、読者からの反応をいただきました。 以下、許可を得て引用いたします。
先日教会でこんな説教を聴きました。 「神様の人事というのは、その人の先をみて行われます。 イエス様が祈りに祈って選び出された 使徒だって『なんであんな奴らが』と周りからは思われるような 顔ぶれだったのではないでしょうか。」
私を私が値踏みすることなどできないと、 そのとき思ったのでした。 神様は私の将来の何に目をとめてくださっているんだろう。 わからないけど、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
すばらしいメッセージをありがとうございます。
確かに、つい「私はこういう人間だから」「私はこういう能力しかないから」などと 自分で自分を値踏み・評価してしまうことってありますよね。 でも、人間の視点と神さまの視点は違う。 神さまはなんとすばらしい方でしょう。
自分で自分を過小評価・過大評価するのではなく、 自分を決め付けるのではなく、 神さまに委ねて、神さまに期待して、 生きる人生は何と大きな祝福に満ちたものになるでしょう!
神さまが用いられるとき、土の器でもすばらしい役割を果たすでしょう。
限られた人生、限られた時間を本当の意味で生かすために、 イエスさまを信じる信仰をほんとうに大切にしたいですね。
フィードバックをありがとうございます。
[CR/g2]がやってきた。読み読み、書き書き。
うう、ざらついている文章を読むのは気持ち悪い…。 プロの編集者に指摘されると「確かにこの文章おかしい」と感じる。 なぜ書いているときには気がつかないんだろう。
「さまざまな方のための祈り」を更新。
[CR/g1]の返事を返す。
[CR]加筆と削除。 加筆はしっかり、削除はばっさり。
[CR] 今週中には、編集部に疑問第一弾[CR/g1]のお返事を返せる予定。
[REF]原稿送付。
[CR]加筆するものを加筆し、削除するものを削除。
「さまざまな方のための祈り」を更新。
悩みごとって、各人で共通な部分がとても多いのだけれど、十把ひとからげに扱えない、という性質を持っている。 人の話を聞いたり、人の悩みごとを聞いたりするときには、 「いま聞いているこの人の話は、誰にでも起こりうることであるが、この人に特別のことでもある」という態度で聞くのがよい。 (ああ、うまく表現できないけれど、読んでいる人に正しく伝わっているだろうか) 「普遍性」と「一回性」の両方をフルにつかまえつつ、聞くのがよい。 「いかにもありがちな話だ」と思うと同時に「スペシャルな話、いままで聞いたことがない話だ」と思いながら聞く。 「この間も聞いた話だな」と思いながらも「今日はこの話をはじめて聞く」という態度で聞く。 セオリーどおりに対処しながらも、マニュアルに陥らないようにする。 機械的に聞きながら、人間的に聞く。 そういう完全に矛盾した状態を同時に抱えつつ、 話を聞くととてもよい、 と私は経験的に感じているのだが、 それを人に伝えるのはとても難しい。 まあそれに、そういうのは私の個人的で人間的な知恵に過ぎないような気もする。
少々疲れているほうが、文章がシンプルになるような気がする。 頭が鈍くなっているため、難しいロジックを展開できないからだろうか。
[REF]書き書き。
今日、ある方から励ましのメールをいただきましたので、 感謝しつつ、みなさんとシェアしたいと思います。 メールを出してくださった方には公開の許可をいただいています。
教会へ行って来るとお昼寝してしまう結城さんへ。
私もきょうは教会へ行き、礼拝の後には信仰入門講座にも出席することができました。 その中で、初めて聞く言葉がありました。
人間は、他人の過去を見て、レッテルを貼っている。でも神様は、その人の将来をご覧になっている。
「今」ではなく、「将来」というところに驚かされました。 変わっていける自分、を感じました。
私は少し前まで、ものすごく過去にとらわれてきた人でした。 中学生の頃に、人生の楽しみのすべてを使い尽くしたような幸せな日々を過ごしたのち、 突然見知らぬ土地に引っ越して、友人も言葉も文化も、 全部がぷっつり切れてしまいました。 その経験が深い傷となり、その若さにもかかわらず、 あとは余生のようになってしまったのです。 それから20年、成人しても結婚しても、 幸せの最大のポイントは過去にあることに変わりがありませんでした。
それが少し前から、大転換したことに気がつきました。 自分が生物学的に生きているのではなくて、 神様によって1日ごとに命を与えられて、生かされていることがわかった頃からです。
いったいどうしてそれがわかったのだろう、と考えてみると、 そのひとつは結城さんの「いまを生きる」だったらしい。
このページを初めて読んだ時は、まだ抵抗があったことを覚えています。 「いま」より「過去」の方がずっと素晴らしいのに、と。 それが当たり前の自分の発想でした。だから、その日に目にするものを、 心から美しいとかいとおしいとか、思うことができませんでした。
今は‥。主がともにいてくださって、今まで過ごしたことのない新しい日を、 いっしょに歩んでくださるのだから、この日は特別な1日、最高の日、と、毎日思えます。 自分としてはすごい変化なんですよ。
過去を振り返らずに、今を最高の思いで生きていける。
自分でビックリです。
結城さんにはほかのことでもいっぱい示唆をいただいています。感謝しますね!
ハレルヤ! 主の御名をほめたたえます。 人生を変えてくださる主に、人生の意味を教えてくださる神さまに感謝します。
イエスさまは、私たちといつも共におられる方。 この方が共にいてくださるのだから、毎日がすばらしい日、ですよね。
ハレルヤ!
眠い…。
礼拝から帰ってきて、お昼寝…。
暑い…。
散歩がてら、次男とおててをつないで近所のコンビニに行く。 りんごジュースとおせんべいを買う。
「おとうさん。あじさいが咲いているよ」
帰ってきてからぼちぼち仕事。
ディスクの整理をする。 CD-Rにバックアップを取ろうとしたが、 800MB以上あるので難しい。 どこのディレクトリが大きいのだろう?
UNIXだとduコマンドがある。 Windowsでは?と思いつつ、Googleで検索してみると。 du.exeというよさげなツールがありました。 感謝。
以下のようなPerlスクリプトを使うと、 カレントディレクトリ以下のどのディレクトリがディスクを消費しているかがよくわかります。
use strict; my @disk = `du.exe`; my @data; foreach (@disk) { /^(\d+) (.*)/; push(@data, [ $1, $2 ]); } my $count = 0; foreach my $data (sort { $b->[0] <=> $a->[0] } @data) { my $mega = ($data->[0] / 1024 / 1024); if ($mega >= 1) { printf("%10d MB %s\n", $mega, $data->[1]); } if ($count++ > 20) { last; } }
暑い…。
仕事の逃避でwww.textfile.orgのスクリプトをいじる。 よそさまのRSSを読みにいって表示する仕組みを作った。 RSSのビューア、感覚的にはRSSアンテナですね。
サーバにUnicode変換モジュールがなかったので、 Unicode::Japaneseをインストールする。 Pure PerlだけでUnicodeとShift_JISの変換ができるので楽。
EUC-JPとの変換のほうは、 サーバにすでにNKFが入っていたのでこれを使う。
あまり頻繁にお邪魔するのもなんなので、 自前で適当にキャッシュしておき、間隔をあけるようにした。 Storableがなかったので、 いんちきなStorable(ハッシュの配列をエンコードしてファイルに落とすようなもの)を作る。
とりあえずは神崎さんのところ(UTF-8)と、安藤さんのところ(EUC-JP)と、 自分のところ(Shift_JIS)を表示させるようにしてみた。 ふむふむ、という感じ。
いま作った雑多な部品は、 うまくモジュールにすれば再利用ができそうだが、 とりあえず面倒なので放置。
いつのまにかwww.textfile.orgがずいぶん進化したなあ。 逃避の力は大きい。
[CR] 逃避ばかりしてもいられまい。
XSLで、FOAFのRDFを読みやすくしてみた。
[CR]校正第一弾作業中。
私のspamメール削除法。
これだけで、私にやってくる大半のspamメールは削除できる。
何だか忙しいんですけどー。
そうだ。こういうときこそ、祈ろう。
天の父なる神様。御名を賛美します。
あなたはすばらしい方、大いなる方。 私たちの創り主、救い主、慰め主なる方。 あなたの御名を賛美します。
今日というときを与えてくださってありがとうございます。 忙しいときも、否定的な思いが寄せてくるときも、どんなときでも、 あなたに向かい、あなたに祈ることができますように。 問題に恐れおののくのではなく、その問題へのチャレンジを通して、 あなたの栄光がほめたたえられるものとなりますように。
そうです、主よ。あなたはとこしえからとこしえまで変わらないお方。 今日も、今まさにこの場においても生きて働いておられる方。 あなたは何と麗しく、すばらしいお方なのでしょう。 聖書を与えてくださってありがとうございます。 イエスさまを通して示された、救いの道を感謝します。 イエスさまを信じるだけで救われる、命の道がはっきり示されていることは、 私たちにとってどれほど大きな幸いであり、恵みでしょう。 ハレルヤ、主よ。感謝します!
命が与えられていること。信仰によって与えられる永遠の命の約束が与えられていること。 そのことを感謝します。 この世が夢のように走り去り、影のように過ぎ去り、雪のように溶け去った後に、 あなたと まみえる時を心待ちにしています。 神さま、どうぞ今日という日、私がなすべきことを教えてください。 そしてすべてのことを主の御心のままに行えますように。 すべてをあなたに感謝します。 いつも喜び、いつも賛美し、いつも主に感謝して生きることができますように。
今日、困難を覚えている方々のためにも祈ります。 天候不順なときにあって体調がすぐれない方、 仕事や経済の問題を抱えている方、 病のうちにある方、 人間関係の悩みの中にある方…。 どうぞその方々の上に、神さまの励ましと助けがありますように。 癒しが与えられ、導きが与えられますように。 あなたを信じる信仰をひとりびとりの上に与え、 すでに信じている方の上には、さらなる信仰を増し加えてください。
神さま。
あなたを信じることによって、私は人生の意味を知りました。 あなたを信じることを通して、私は愛を得ました。 主よ。そのことを感謝します。 あなたを知ることなくしては、毎日の生活はなんとむなしいことでしょう。 あなたがおられること、あなたがすばらしい愛をもって私たちひとりひとりの 人生を整えてくださることを知らずしては、何を得ようと、何を知ろうと すべては影のようにむなしいことです。 あなたは永遠ですが、この世に属するものは永遠ではないからです。
イエスさまの十字架の救いを感謝します。 日本ではあなたを信じている方は非常に少ないのですが、 どうか1人でも多くの人がイエスさまの救いに気がつき、 あなたが心をノックする音に気づき、心を開くことができますように。 すべての問題のほんとうの解決は、イエスさまのところにしかない、 ということを悟ることができますように。
この祈りを、私たちを愛してやまない救い主、 イエスさまの御名によって御前におささげいたします。
ハレルヤ!
[FOAF] FOAFにお友達やお知り合いを追加。 昨晩、神崎さんに習ってXSLも書こうとしていたが眠くなって断念。 XSLって難しい…。
[TF] ところで、リニューアルした www.textfile.orgも、だいぶ進化した。 複数段落の記事も書けるようにしたので、 ちょっとウェブロ風?
[XML] 神崎さんのFOAFを読んで勉強。 そうか、foaf:name要素にも、xml:lang属性を付けることができるのか。 ふうむ。
<foaf:name>Hiroshi Yuki</foaf:name> <foaf:name xml:lang="ja">結城浩</foaf:name>
xml:lang属性って、任意の要素につけられるのだろうか? うーん、ネームスペースもちゃんと学ばねば。
[FOAF] 大谷さんから、結城のfoaf.xmlの書き方のミスを指摘していただいた。 複数の知人を書くときにはknows要素で個々にくるむのでした。 神崎さんのページにも わざわざ書いてあったのを見逃していました。 ご指摘感謝します。
あっ、わかった。 だからXSLがうまく動かなかったのかも…。
[XML] 私が先ほど感じた疑問(xml:lang属性って、任意の要素につけられるのだろうか?)の 答えの一部は、 XML名前空間の区画にあった。 この中の「b) 大域的な属性を含む区画」に相当するのだろう。
余談だけれど、 属性に名前空間名を付加して「大域的な属性」として用いるのって、 アスペクト指向風の話だと思いませんか。と、誰にともなく。
<java:package> <java:name>java.util</java:name> <java:class concurrent:thread-safety="safe"> <java:name>Vector</java:name> </java:class> <java:class concurrent:thread-safety="unsafe"> <java:name>ArrayList</java:name> </java:class> </java:package>
ちょっと違うか。
[REF] リファクタリング「後」の状態を作る。 リファクタリングは楽しい。 後は図を描いてから原稿を書けばよい。
[FOAF]
まずは、いがぴょんさんをお友達に追加:-)
。
結城とメールをやりとりしたことのある「お友達」は、 FOAFを作って メタデータによる知人ネットワークの表現へ書き込んでみましょう。
自分のFOAFを作ってみた。
誰かお友達になろうよ :-)
[REF] JAVA Developer誌、リファクタリング連載用のプログラム作成中。 今回は双方向関連→単方向関連の変換。 手が勝手にリファクタリングしてしまうため、 リファクタリング「前」の状態を作るのに苦労する。 プログラムを作っていると、 いつの間にか「きれいに整理された」コードになってしまうのだ。
www.textfile.orgにTrackBackを少し実装しました。 とりあえず、以下のものを作りました。
以下はまだやっていないこと。
:-)
自分で実装してみて、やっと理解できましたが、 TrackBackってややこしいと思います。 TrackBackの実装を行う際に参考になったのは、以下のリンク。
最近、www.textfile.orgをいじっているけれど、 こうやってみると(いまさらながら)tDiaryってよくできていますねえ。
という形で「記事への反応」を実感できる、と。
え、MovableTypeだって同じことができるって?
一言コメントのフィールドを追加。 それからshinoさんから 「座談会のログが全部表示されっぱなしというのはちょっと重い感じ」 というコメントをいただいたので、 そのあたりを修正する。
こうやってwww.textfile.orgを整備していると、 これって私がずっと作りたいなと思っていたものに近いことに気がつく。 私が考えていたのはHalfWikiというもの。
このようなHalfWikiは、各種コラボレーションでも有効に機能すると思うんですが、どうでしょう。 たとえば翻訳。英文を上半分において、訳文を下半分に置く、とかね。 どなたかこういうWiki作りませんか?
※とりあえずHalfWikiをGoogleで検索したがNot Foundであった。
後日談:
日記読者から「HalfWikiってframe使えばできるじゃん」というコメントを…。
あ、そっか(^_^;
…。
結局、TrackBackのほうで遊ぶのは中断した。 その代わりに、 www.textfile.orgにWiki風味の「座談会場」を設置してみました。 要するに、各記事の下に自由にコメントできる欄をつけただけですが。 Wiki風味とした理由は、そのコメントが自由に誰でも書き換えできるから。 WikiではなくWiki風味になっている理由は、 WikiNameが使えないから。
現在のままだとちょっと敷居が高いので、 「一言コメント」のフィールドをつけておくべきだろう。
一応ファイルロックはしているけれど、 更新の衝突はチェックしていないので、 さくっと先祖がえりする可能性はある。 そういうのはそのうち直そう。
MakeWebはずっと「4.0α版」と称していたけれど、 実際には結城のサイトの構築に耐えるくらいの動作はしているので、 4.0.0版としてリリースしました。 MakeWebメーリングリストもありますので、ご興味のある方はどうぞ。
時間を見つけてTrackBackの勉強。 要するに、 TrackBack pingはよそのページに自分のページへのリンクを張らせる方法ですね。 あなたのページの話題に関することを、私のページでも書いているから見に来いという仕組み。 リファラを使った逆リンクだと、リンクをたどっていった人がいたタイミングで逆リンクが張られる。 TrackBack pingだと、ページ作成者が積極的に逆リンクを張ってもらいにいく、と。
ふうむ。
ところで、受信する側から考えると、 TrackBackで送られてきたURL(ここにリンク張ってね、というURL)は必ずしも信用できるとは限らないですよね。 たとえば、いわゆるブラクラ(ブラウザクラッシャー)のURLを貼り付けられたら、 トラックバックで議論を追おうとした読者に多大な迷惑をかけてしまうことになる。
ということは、Wikiと組み合わせて「場による自浄作用」を持たせたらどうでしょう。 つまりトラックバックの一覧を出すページを、一般読者がWiki風に自由に編集できる、と。 そうすれば迷惑URLは誰でも削除することができる。 誰かこういう実装をしている人はいませんか?と誰にともなく書いてみる。
たとえばishinaoさんの WikiLikeを見てみると、WikiにTrackBackを組み込んではいるけれど、 WikiのeditでTrackBackの一覧(関連ページ)を編集することはできない(できませんよね?)。
ええと、以下は、作業メモ。 私がやろうとしていたのは、 私のサイト(Wikiもあり、CGIもあり、HTMLもあるというサイト)の任意のURLに対して、 TrackBackの機構を入れようというもの。 私のサイト内の任意のURLに対して、関連リンク集を作るような感じですね。 でも、それをTrackBackでやるくらいなら、 Wikiと連動させたほうが手軽じゃないか、などと思っている。 もちろん、TrackBackの受信をサポートすると、 プログラムから一発でリンクを張ってもらえるというメリットはあるけれど…。 少し作りかけたんだけれど、なんとなくピンと来なくなっちゃって放置。
おお、今日は14日の土曜…(ばき)
朝から各方面にメールやらメールやらメールやら。 みんな反応はやい。
www.textfile.orgであちこちリンクしていると、ふと、 「読む価値のあるコンテンツ」って実はすごく少ないのでは、 と思ったりする。 TrackBackやツッコミやWikiやコメントや…ともかく、 情報のカケラ、言葉の断片はあちこちにあるけれど、 腰をすえて読み、時間をかけてじっくり考えたり味わったりする「コンテンツ」は、 Web上にはまだまだ少ないのではないか。 やっぱりいい本をきちんと読まなくちゃ駄目だな。
おお、今日は13日の金曜日。 ウイルスに注意する日ですね。 ノートン君、がんばって守ってね。
[VN] 全体像がだいぶ見えてきたので、 もう一度最初に戻ってrefineしていく。
と、いうわけで、 今日は『暗号技術大全』翻訳の打ち上げの宴会におよばれしました。 ネットで非常にお世話になっている山形浩生さんにはじめてお会いしました。 『暗号技術大全』は、 山形さんの関係者がよく集う「部室」で訳者の公募が行われたこともあり、 訳者の方々のほとんどが当日はじめて顔をあわせたようです。 席上では、山形さんの書籍、セキュリティ、ネット全般、 オープンソースとライセンス、 それにIT業界の人の心の健康などの話題が出ていました。
結城は山形さんの『暗号技術大全』の本を持参し、 山形さんはじめ、みなさんにサインをしていただきました。 ありがとうございます。
最近、日記更新してなかった。
[2N] そろそろやらねば、ということでやりはじめる。 とりあえず、現在のファイルをCVSのリポジトリに入れるところから。
[CVS] ディレクトリは、addしたらすぐにリポジトリに反映される。 あらためてcommitしなくてもよい。 最初不思議に思ったんだけれど、当たり前かもしれない。 なぜなら、ディレクトリをaddしたら、すぐにそのディレクトリ内にCVSディレクトリができてほしいから。 でないと、そのディレクトリにファイルを作って、cvs addできない。
意識してCVSを使うようにしている。 慣れてくると楽しいですね。 まだネットワーク経由でCVSを使う練習はしていないし、 ブランチだのタグだのは試していないけれど、 ローカルで1人の作業用にCVSを使うのはおっくうじゃなくなった。 また、一時的に作ったファイルはどれで、きちんと管理しているファイルはどれ、 という違いを意識するようになったように思います。 その結果、ディレクトリの中が以前より整理されたみたい。
[PI] まとめを書いて、最終動作確認を行う。 zipして編集部に送付。 編集の方、いつもありがとうございます。 よろしくお願いいたします。
礼拝に行き、恵みをたくさん受ける。 今日はお昼寝をしなかった。
子供を公園に連れて行く。 次男が短い木の枝を拾い、ふりまわして遊ぶ。 滑り台に乗るというので、私に「お父さん、これ持ってて」と木の枝を渡す。 私は、いいよ、と言う。すると次男は、生真面目な顔をして「しっかり持ってるんだよ。落とさないようにね」と言う。 まるで親が子に言い聞かせるように言うのでちょっと可笑しい。 私はにこにこしながら、はいはい、と答える。 次男は滑り台に向かって走りながらときどきこちらを振り返り、「しっかり持ってる」かどうかを確かめる。 私は、何だか心がぎゅうっと温かくなる。
[PI] 原稿をぱたぱたと書く。 書いているうちに、サンプルプログラムの大きな欠陥を見つけて「ひええ」と思う。 でも、何とか修復方法を見つけて修復。 図を描いて、プログラムの解説文を書き、だいぶめどがつく。 あとは最後のまとめと最終動作確認なので、 明日には編集部に送付できるであろう。 ファイルのバックアップをとる。 いま書いているのは、Mock Objectパターン。
昨日は、奥さんとデートでした♪
「テキストとプログラミングの寡黙な情報集」として2000年の末から (うう、そんなに前なのか)公開しているwww.textfile.orgのページを、 CGIを使って全面改装しました。
www.textfile.orgのRSSを利用している方はURLが変わりましたので、ご注意ください。 修正前のRSS→ 修正後のRSS
いままでは、ローカルマシンでPerlを動かして作ったHTMLファイルをサーバに転送していましたが、 これからは、データファイルをサーバに転送し、CGIでHTMLを自動生成するようにします。 数時間で作ったCGIなので、大したことはやっていません。 でも、誰かの何かのヒントになるかもしれませんから、 思ったことをメモしておきます。
やったこと・できたこと
やってないこと・いつかやってみたいこと
[VN] いつものように淡々と仕事。 祈って仕事をはじめると、落ち着いて作業を進めることができる。 感謝。 今日も新しい章を頭から順に書いてみる。 うん、今回は予定通り「あまり厚くない本」になりそうだ。
先日、とある方から、 「関心空間」で有名なユニークアイディの前田邦宏さんをご紹介していただきました。 ビールを飲みながら、 関心空間の裏話、 ネットワーク・コミュニティのあり方、 それに盛り上がるコミュニティと盛り上がらないコミュニティの定量的差異、 などについての興味深いお話をうかがいました。
[NC] 早朝、というか真夜中、「動物相談室」の原稿を仕上げてメール。
[PI] 著者校正をメール。
各方面の編集部のみなさま、いつもお世話になっております。 ご迷惑をかけることも多々ありますけれど、どうぞよろしくお願いいたします。
礼拝。
日曜日は教会に行く。 これは大事なことだと思っている。 行けばよい、というわけではない。 でも、行き続けること、少なくとも教会に行くのが基本であると考えることは大事だ。 教会にいって、神さまを賛美する歌を歌う。 教会にいって、牧師さんのメッセージを聞く。 そして神さまに祈る。 感謝、悔い改め、賛美、願い、…いろんな思いを神さまに捧げ、神様と対話する。 それは一週間をはじめるにあたってよい習慣だと思っている。
信仰を持っていながら、どうしても仕事の都合や家庭の都合(たとえば家族の反対など)で、 教会に出席できない人は、なかなか大変だ。 どうか祈祷会や家庭集会などを通して、クリスチャンとのよき交わりの時がもたれますように。 しかし、いつもよい教会に導かれるようにと祈り、教会の礼拝に出席できるようにと祈ることも大事だ。 そして、教会になかなか出席できないときも、それを欠けと見るのではなく、 祈りのチャンス、伝道のチャンス、別の面で神さまにつながる道を探るチャンスを見ることが大事だと思います。
祈りについて。
私たちは祈るとき、つい自分の望みばかりの祈りになりがちです。 「○○してください」「○○ができますように」「○○が起こりますように」… 神さまに対して願いごとをするのは決していけないことではありません。 しかし、願いごとばかりをする習慣になってしまうのはとてももったいないことです。 神さまを自分の願いをかなえる道具のように考えてしまいがちだからです。 そういう習慣ができてしまうと、簡単に失望が襲ってきます。 「こないだ○○って願ったのに駄目だった。祈りは無駄だ」とか、 「○○してほしいって祈ったのに叶わなかった。神さまは何を考えているんだ」という風に。
神さまに祈るときには、 神さまの主権を認め、神さまが主であることを認めます。 「神さまの御心がなされますように」という祈りはとても大切な祈りです。 たとえば、イエスさまを身ごもるときのマリアさんがそうでした。 「あなたのおことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38より) それからゲッセマネのイエスさまもそうでした。 「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42より)
神さまの主権を認め、 いったん自分の手から自分の願いを離すのはとても大切なことだと思います。
あなたの今の願いはなんですか。 その願いを自分の手から離して、神さまにお預けしてみてはどうでしょうか。
自分の願いごとが思い描いたまま成就することは、 (意外に思われるかもしれませんが)必ずしもあなたの幸福にはならないかもしれません。 しかし、あなたの願いごとを自分の手から離し、神さまにお預けし、 イエスさまにならって 「神さま。わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」 と祈ることができたなら、きっとすばらしい実を結びます。 聖書の神さまは、最善をなしてくださる方だからです。 私はそのように信じています。
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