結城浩
2001年7月27日
…そして、入り組んでもつれている糸玉を前にして、 途方にくれてしまったような気持ちになる。 確かに、この糸は美しい。 そしてこの糸から作られる作品は、 おそらくすばらしい色合いの、 たぐいまれなる逸品となるだろう。 けれども、残念ながら、いかんせん、困ったことに。 この糸はもつれている。 解きほぐすのは容易なことではないし、 また鋏を安直に持ち出して切ることも難しい。 へたに切ったなら、せっかくの糸がだいなしになってしまうからだ。 根気よく結び目を解いていき、 そしてどうしても解きほぐせない部分にだけ鋏を使う… プログラミング言語の本を書くとき、 私は上のような気持ちになることがある。 丁寧に選り出された糸をきちんと伸ばし、 再度その糸を元にして新しい作品を作る。 もしかしたらその作品を見た人は、 「ここにはオリジナリティというものはなく、 単に元の素材がよいだけだ」 と言うかもしれない。 それには大いに反論もあるが、それはそれでよいことだ。 素材のよさが素直に表現されている、ということだから。 「高度な技術が見られなくてものたりない」 という人もいるかもしれない。 それも、よきかな、よきかな。 作品を作る人は、 自分の技法に溺れたり、淫したりしてはいけない。 作品を作るときには、 自分は「通りよき管」となるのがよい。 たんねんに「あるべきすがた」を求めて、 そこへ近づけていくようにすればよいのだ。 「ねえ、本を書くよい方法って知ってる?」 と私が家内に言うと、家内は、 「ただ、書けばいいんでしょ(あなたが先日そう言ってたじゃない)」 と答える。私は苦笑してこう言う。 「そうなんだけど、大事なのは『おおぜいの読者に向けて書かない』ということなんだ。 おおぜいの読者に向けて書くのではなく、 『たった一人の《あなた》に向けて書く』 のがよい方法なんだ」 今度は家内が苦笑する。 家内は私の薀蓄に慣れているので、根気よくふんふんとうなづいてくれる。 「ねえ」と家内が言う。「あなたはそういうことをどこで学んだの?」 「聖霊が教えてくれるんだ」と私は半分冗談めかしていう。 実際には冗談なんかではないのだが。 文章を書く前、特に本を執筆する前にはよく祈るのがよい。 両手を机の上に置く。 てのひらは上に向けておく。 そして静かに目を閉じて、神さまに祈る。 もちろん八百万の神々なんぞにではなく、 この天地をお創りになった唯一絶対の神さまに祈る。 心の中で「おとうさん…」と呼びかけながら、 私は心を開く。 自分がおかした罪、傲慢、わがまま、自分勝手、不従順、いたらなさが どっと吹き出してきそうになるが、そのことよりもまず、 神さまを—— 《自分に目を向けるのではなく、神さまに目を向ける》 神さまを—— 《感謝は要求に先立つ》 ——ほめたたえる。 そのときに、いつも、私は主の祈りを思い出す。 イエスさまが教えてくださったあの祈りは確かに、 神さまへの呼びかけと、神さまへの賛美と感謝にはじまっていた。 祈りながら、心を主に向ける。 そして自分が感じている不安や悩みもまた、神さまの前に持ち出そう。 いまから自分は文章を書こうとしている。 その技術的な内容、文章の形式もさることながら、 そこに封じ込められ、読者の前に解き放たれるメッセージが 主によって聖いものとなるように、願おう。 単に上品ぶった・知識をひけらかす・技術だけが先走ったものにならないように。 広い意味で、深い意味で「よい」文章になるように、願おう。 主からの知恵が与えられるように、祈ろう。 この世の時は流れていく。 私に与えられた今日という時も、流れていく。 貴重な、かけがえのない、決して戻ることのない、今日というときも流れていく。 そんな中にあって、私がいまから書こうとしている文章が、 主の御前においても価値のあるものとなるように。 もしかしたら大量に編集しなければならなくなったとしても、 それが無駄とはならず、作品にとって必要な刈り込みとなるように。 いまから書かれる文章を通して、読者が単に知識を得るだけではなく、 はげましや、よろこびを得ることができるように。 たとえあまり売れなかったとしても、 必要な読者のところに必要な言葉が届けられるように。 そのようなことを自分の言葉で祈っていこう。 そして、目を開き、 淡々と、しかし情熱を持って文章を書き進めていこう。